日本史から消えた以仁王生存の真実
尾瀬三郎物語と以仁王逃亡説
学校では、決して教えてはくれない日本歴史の真実の一場面のお話です。
平安時代、平清盛全盛期に「清盛を討とうじゃないか」と東国の源氏に呼びかけた人物がいました。
その人物の名前は以仁王(もちひとおう)と言います。
しかし、この企みは直ぐに平清盛の知る所となり、京の屋敷に静かに佇んで居た以仁王は、源頼政の勧めに従い琵琶湖畔の三井寺に逃げ込みます。
その内、三井寺も危なくなってきたので、頼政は以仁王を馬に乗せ奈良興福寺に向かいます。
しかし、途中の宇治平等院で清盛軍に追いつかれ、戦いは始まります。
以仁王は数名の従者(僧兵)と共に平等院を抜け出しますが、奈良に入る寸前に清盛軍に追いつかれ、矢で脇腹を射抜かれ殺されてしまいます。
これが日本の正史なのです。
しかし、山梨県南部町、群馬県沼田市や片品村、福島県南会津の各村々、新潟県旧下田村・旧小国町・旧上川村には、『以仁王が生きて逃亡している』という言い伝えが今も伝説という形で語り継がれています。
現在まで、この『以仁王逃亡説』はそれぞれの地域でのみ、単独で言い伝えられて来ました。
そして、それぞれの地域の歴史研究者や歴史愛好者達が『以仁王逃亡説』について、幾多の資料を残しています。
私は、これらの言い伝えや資料を、出来る限り収集し、それを時系列に並べ、繋ぎ合わせてみたのです。
すると、面白い事実が浮かび上がってきたのです。
各地域に言い伝えられてきた『以仁王逃亡説』は、不思議なことにひとつのルート上でのみ繋がっていたのです。
そして、『このルート上から少しでも外れた地域には、以仁王逃亡の言い伝えは只のひとつもない』、ということが分かったのです。
"殺された筈の以仁王は、生きて逃亡していた"
もしかしたら、これが真実ではないのか?
しかし、平家物語では明快に『殺された』と語られています。
そこで、平家物語を注意深く読み直してみました。
すると、解釈を少し変えれば、『以仁王は生きている』とも読み取れるのです。
また、以仁王と同時代に、尾瀬ヶ原を中心にして伝わっている謎の人物伝説
福島南会津桧枝岐村の 尾瀬大納言
群馬県沼田市や片品村の 尾瀬次郎
新潟県魚沼市湯之谷の 尾瀬三郎
これらの伝説上の人物と、『以仁王逃亡説』との関連性についても少しづつ分かってきました。
以仁王に関する各地域の資料は「以仁王資料館」をご覧になって下さい。
尾瀬大納言や尾瀬次郎、尾瀬三郎については「尾瀬三郎資料館」をご覧になって下さい。
仮に、以仁王がこれらの地域に逃亡していたのが事実だとすると、宇治平等院の戦いで死亡したとされる ”平家物語の語りの謎” を解かなければなりません。
さて、以仁王はどのようなトリックを使って清盛軍の包囲網から見事に消えることが出来たのでしょうか?
この『以仁王の戦場からの脱出トリック』については、「尾瀬三郎物語の謎を解く」をクリックしてお読みください。
このホームページを、お読みになる前に
源頼政と頼政配下の猪隼太、渡辺唱はイリュージョンの天才だった。
①鵺退治(源頼政 猪隼太)
②戦場からの脱出(源頼政 渡辺唱 身代わりの以仁王)
③尾瀬大納言、尾瀬次郎、尾瀬三郎の出現(清3兄弟)
④尾瀬ヶ原の3名の公卿 (北面の武士?)
越後を目指した以仁王一行は、駿河国安倍川流域の八条院領にて逃亡資金を調達した。
頼政切腹の介錯人、渡邉唱は頼政の首を携えて、駿河国安倍川流域の八条院領で以仁王と合流した。
八条院領の持ち主は、八条院あき子であり、以仁王は、あき子の猶子であった。
駿河国に以仁王が現われたことは、京の都の八条院に噂として情報が入った。
この情報は藤原兼実の耳にも入り、『玉葉』に記載された。
【理由】
以仁王は、八条院あき子の猶子
以仁王の子(八条院あき子の屋敷に居た若宮と姫君)も、あき子の猶子
九条兼実の子、良輔も、あき子の猶子
若宮と姫君と良輔の母親は、高階盛章娘
以仁王に同行した幼児、鶴丸(=田千代丸)の母親も高階盛章娘か?
以仁王の長男の北陸宮はあき子の猶子ではない
陸路の逃亡は、必然的に痕跡が残る
しかし、水路(船や川舟)を利用すれば逃亡痕跡を一切消すことが出来る
そして、頼政は水軍摂津渡邉党の頭領であった
以仁王逃亡経路(⛵水路 ~陸路)
三井寺~瀬田川⛵宇治川~宇治平等院~巨椋池⛵淀川⛵大阪湾⛵太平洋⛵駿河安倍川~八条院領~苅安峠越え~甲斐若宮八幡宮~富士川⛵太平洋⛵東京湾⛵利根川⛵沼田⛵~片品~尾瀬~南会津各集落~叶津~八十里越~越後吉ヶ平~加茂の神社~加茂川⛵信濃川⛵小国領⛵信濃川⛵阿賀野川⛵会津(現越後)津川~会津(現越後)小川庄中山集落
第1章 尾瀬三郎房利は架空の人物名
第2章 以仁王は生きて逃亡していた
第3章 以仁王の脱出トリックを解明する
第4章 以仁王脱出を助けた足利又太郎忠綱
第5章 頼政自刃後の渡辺長七唱の逃亡経路
第6章 頼政首は唱によって古河に運ばれた
第7章 平等院から甲斐、沼田、尾瀬へ
第8章 尾瀬から越後への道
第9章 尾瀬三郎は、清銀三郎貞方だった
あとがき
宮城三平は、会津や越後の各地に伝わる高倉宮以仁王の言い伝えを丹念に収集し、『高倉宮以仁王御墳墓考』として発表しました。
この『高倉宮以仁王御墳墓考』に真っ向から異を唱えたのが、民俗学の権威者柳田國男です。
柳田國男は、彼の著作『史料としての伝説』『伝説』で『高倉宮以仁王御墳墓考』の内容を完全否定しました。
当ホームページでは、『尾瀬三郎物語の謎を解く』で述べた通り【以仁王逃亡説は史実である】との立場をとります。
つまり、宮城三平が発表した『高倉宮以仁王御墳墓考』は事実であるとの立場です。
宮城三平の『高倉宮以仁王御墳墓考』はネットで公開されていますがかなり難解です。
そこで、当ホームページでは、『高倉宮以仁王御墳墓考』を現代語版で再校正し紹介することとしました。
日本の正史では以仁王は光明山寺の大鳥居の前で討死したことになっています。
本当に以仁王はこの場所で討死したのでしょうか。
『平家物語』の記述をもとに、以仁王殺害の現場検証をしてみた結果、意外な事実が発見されました。
以仁王一行は会津の叶津から八十里越を越え越後国吉ヶ平集落に到着し、暫く逗留しました。
その吉ヶ平の山の中には、雨生池という、何とも神秘的な池が有ります。
そして、その吉ヶ平の雨生池には悲しい大蛇伝説が語り継がれています。
この大蛇伝説ですが、ストーリーの展開が『平家物語』の中の『緒環』とそっくりなのです。
※緒環(おだまき)の物語のもとは、豊後地方の緒方三郎惟栄大蛇伝説です。
以仁王は、宇治平等院の戦場から、見事脱出に成功しました。
しかし、日本の正史では、以仁王は平等院の戦いで戦死したことになっています。
有名な民俗学の権威柳田國男氏や多くの歴史学者は平等院での戦いでの戦死説をとります。
『平家物語』の中で、『流れ矢に当たり戦死した』と語られているからです。
しかし、私は
平家物語では、平等院での戦いで戦死したとは語ってはいない
という解釈をしました。
しかし、この主張を進めていくためには、いくつかの大きな疑問点を解かなければなりません。
『平家物語の作者は、何故にこのような回りくどいトリックまがいの語りとしたのか?』
更に『平家物語の作者は、膨大な情報をいかにして手に入れることができたのか?』
近衛天皇、二条天皇、二代皇后多子、頼政、以仁王とその子供達、待宵小侍従、六条大夫宗信、『令旨』を持って東国に伝えた源行家、『玉葉』の作者九条兼実、その弟慈円、『平家物語』の作者達、この人達の中心に、あるひとりの女性が浮かび上がってきました。
その女性とは八条院あき子【暲子】という人物です。
今回は、この八条院あき子を通して、これらの疑問点の解明に挑みます。
治承4年5月25日、頼政は、以仁王を馬に乗せ、奈良興福寺の向け出発しました。
頼政は、途中の宇治平等院に着くと、宇治橋の橋板を三間剥がします。
そして、宇治平等院で頼政軍と清盛軍の戦いが始まります。
宇治平等院を抜け出した以仁王は、奈良のたどり着く寸前に、清盛軍に追いつかれ、命を落とされます。
この章では、『宇治橋の橋板剥がし事件』から、
「もしかしたら、三井寺を出発して間もなく、以仁王は舟に乗せられたのではないか」
という可能性について述べてみます。
尾瀬ヶ原は、福島県桧枝岐村、群馬県片品村、新潟県湯之谷村の境界に有ります。
そして、それぞれの村々にそれぞれ尾瀬大納言、尾瀬次郎、尾瀬三郎の言い伝えが伝わっています。
この言い伝えを比較し、対比していくと奇妙な一致点が浮かび上がってきました。
ところが、南会津の以仁王に関する言い伝えには、尾瀬ヶ原にこの3名の名は有りません。
何故でしょうか?
この章では、以仁王一行は片品川で舟を降り、尾瀬ヶ原に身を隠し、その後、南会津の村々への逃避行に出発する8日間に何があったのかを説明します。
『以仁王の令旨』の全文については、ネットで検索しても、殆どヒットしません。
そこで、令旨の全文を紹介します。
令旨の署名者が、『頼政』ではなく、嫡男の『仲綱』であることを確認して下さい。
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