郷土史の研究
以仁王の御廟所とその令旨
2009年9月に、山梨県の南部町の若宮八幡宮を訪れた。
柿花仄氏の『皇子・逃亡伝説』に甲斐路にも以仁王の足跡があると書いてあったからである。
そこには、『若宮鶴丸君ご使用の井戸』も現存しているという。
京の以仁王邸から三井寺へ以仁王と一緒に逃げ込んだ鶴丸は、光明山寺にも、綾部市の高倉神社にもその姿はなく、ここ甲斐路に現れた。
階段を登った先にある若宮八幡宮は、極小規模な造りであった。
私は『皇子・逃亡伝説』に書かれてあった、神社近くの ”望月家” を、訪ねた。
事前のアポイントなどしていない。
ご主人が出てこられた。
突然の来訪にさぞや驚かれたであろう。
ご主人に、私の身分を明かし、新潟から以仁王のことを調べに来たこと等をお話した。
最初はちょっと迷惑そうなお顔をしていたように思う。
私の名刺を差し出した。
私の名刺には、土木技術関係の資格がいくつか書いてある。
その資格を見て、安心したように家の中に招き入れてくださった。
お話を聞けば、望月さんは、以前測量会社を経営していて、今は、町議会議員になったため、会社の経営から離れているそうだ。
私の資格を見て、同じ同業者と思い安心なされたのであろう。
恐らく『皇子・逃亡伝説』に望月さんの実名が載り、心無い興味本位の、王がここに来たことを全く信じない歴史愛好家達が大勢押し寄せたに違いない。
望月さんからは、以仁王の位牌と鏡(伝御神鏡)を見せていただいた。
それと家の裏にある『若宮鶴丸君ご使用の井戸』も見せていただいた。
私は望月さんには『会津から越後に逃亡した途中の経路がここ甲斐路だと信じています』と持論を述べたので、信用していただいたのであろう。
更に、望月さんは『実は、私は歴史というものが苦手で、警察官の兄がまとめてものなんです』と言って、小冊子『以仁王の御廟所とその令旨』を私にくださった。
写真 若宮八幡宮 高倉宮以仁王の位牌 高倉宮以仁王の手鏡 若宮鶴丸君がご使用の井戸
「以仁王の御廟所とその令旨」に書かれている王の脱出トリック
新潟の我が家に帰ると、早速この小冊子を開いてみた。
王の脱出トリックをどのように説明しているのか等々?
興味津々に読み始めた。
「甲斐国志」神社の部西河内領本郷村若宮八幡宮由緒の条に「相伝フ昔王人逃来リ傷付キテ此ニ死ス、因テコレヲ祀ル、今患所ヲ禱レバ験アリト云」とある。
そして、「以仁王は、平等院にて清盛軍の攻撃を受けるに至った」とし「頼政軍の奮戦空しく敗れ、頼政は王酷似の待者菅冠者をその身代として南部に落とした後此々に自刃、王も又傷つきしが再起を図り甲斐の国にご落延され給う。」と記している。
つまり、以仁王は、平等院内で傷ついた後、どこかに身を隠し、平家軍が通り過ぎるか、引き挙げた後、琵琶湖まで引き返して東海道経由で逃げたことになる。
琵琶湖からの道筋については、「京都より船で琵琶湖を渡り美濃の国に至り、東海道を駿河の国に下向、安倍川の下流八条院領服織荘に至り、これを更に奥方即ち安倍川の上流に向かわれた。」とある。
その後は、「苅安峠を越えて甲斐国巨摩郡に付き、神路、宮の入りを経て若宮第で傷病のためお亡くなりになった。」という。
第6章の「以仁王供奉」の人々の章では上記と少し異なる表現が出てくる。
「頼政は王を奉じて、三井寺を出て瀬田の川尻を西の山路に分け入り、笠取越をし宇治の平等院で平氏の追討軍を迎え撃つことを決意した。以仁王は三宮導性(幼名鶴丸)等と、瀬田の川尻に出る途中、密かに琵琶湖畔に抜け出し舟で対岸天野川の川口附近に渡り米原から中山道を通り美濃国山県郡上野村に一時身を寄せられた。」とも記されている。
この説明だと、以仁王は平等院に入っていない。
尚、上野村とは現在の関市であり、頼政の首を持った渡辺播磨二郎省之と関市にある蓮華寺で合流したとある。
「鶴丸」の記述
望月さん宅の裏に「若宮鶴丸君ご使用の井戸」があった。
しかし、この小冊子の中にはこの井戸の件は一切触れられていない。
以仁王の屋敷から三井寺に逃げた時、以仁王は鶴丸という童子を連れていた。
この鶴丸は、会津には「田千代丸」と名を変えて同行している。
越後の小国で発見された巻物にも童子が登場する。
※鶴丸、導性、道性、良久王は同一人だと説明されている
※水原一氏「以仁王の子女」によると、「道政は八条院の猶子、仁和寺に入り才能を認められたが1187年若死」とあり、次の「仁誉」は「生母不詳園城寺に入る」とあるので、鶴丸は仁誉である可能性が強いと思う。
「鶴丸」の行方
「鶴丸」の生死については、九条兼実が情報の入手に異常なまでに務めたと小冊子は語る。そして、生死不明が6年を経過したので入滅とされたという。
小冊子には、以仁王は「若宮第に御落延され給うも間もなく傷病のためこの地に薨じ給う」とあり、本文中では、鶴丸は行方知らずと結論づけている。
しかし、結びの項では、一転「若宮第に若宮源衛門良久と改名永住」と記されている。
以仁王一行が安倍川の八条院領から刈安峠を越えて甲斐へ抜けたことは、京に居る九条兼実や八条院あき子には何らかの連絡が行っているはずです。甲斐路にいたことは、九条兼実の日記「玉葉」に書かれているのが何よりの証拠です。
しかし、九条兼実らが王の子「鶴丸」を、6年もの間、探し続けた理由は何故なのか。
以仁王がここ甲斐でお亡くなりになり、鶴丸は若宮第に永住したのであれば、6年もの間、「鶴丸」を九条兼実が探し続ける理由が見当たらないのです。
鶴丸は以仁王と共に、甲斐路を出発し、会津、八十里越、越後小国まで同行し、小国領で、消息を絶ったというのが真実です。
上川村の中山集落には、「鶴丸」の記録が全くないのです。
このことは何を物語るのであろうか。
柿花仄氏は、小国で偶然発見された2本の巻物には、以仁王のことが書いてあるのではないかと判断しました。
しかし、小国の両家共、この巻物は、決して他人には見せてはならないとして、現代まで隠し通してきました。
もし、巻物に以仁王のことが書いてあるとしたなら、同年、源氏政権になるのでもう隠す道理がないではないでしょうか。
ということは、巻物には、どうしても、隠し通さねばならない別の重要な理由が存在したのではなかろうか。
柿花仄氏は「以仁王は、小国領に入ったとし、そのことを両家の先祖が巻物にしたため一切公開を阻んだ」と解釈しているようです。
三条市内の某新聞社から私に電話で質問が来た。
「ある講演会で、以仁王は、渋海川に入る手前の信濃川沿いの某屋敷に足止めされ、結局小国領内には入ることが叶わず、そこから、上川中山集落の地に出発したとの説明があったが、どう思うか。」と
これまで、「皇子・逃亡伝説」を読み、以仁王一行は小国領に入り、その後、上川に向け出発したとばかり思っていたが、確かに、小国には以仁王の痕跡がほとんどないことが不思議に思っていたので、「可能性としては、十分あり得るのではないか」と答えておいた。
小国が、以仁王を受け入れたくない理由は、本編「尾瀬三郎物語と以仁王逃亡伝説」で十分なほど説明した。
小国に入っていないとすれば、2本の巻物は何のために書き残し何のために非公開としたのだろうか。
「皇子・逃亡伝説」を読む限り、巻物には以仁王を領内にいれなかったとは、書いてない。
この続きは・・・・・・「皇子・逃亡伝説」で・・・・・。