【会津における高倉宮以仁王】
貴人流寓伝説の古里をたどって
昭和52年2月10日発行
安藤紫香氏が、会津における以仁王に関する言い伝えを古文書と現地調査をもとにまとめたものである。
これより以前に、会津の以仁王逃亡説を最初に世に問うた宮城三平という人がいます。
この本の114pに「宮城三平という人」という項目があり、そこを紹介します。
文政3年(1806)3月9日福島県耶麻郡元島村吉田組の郷頭宮城家の長男として生まれる。明治14年(1881)1月19日宮内卿より乙第1号により『古来諸王の地方伝説並びに墳墓調査』方が県に通達されたので、福島県は同年4月6日に宮城三平に調査方を命じた。
宮城氏は、群馬県一帯から沼田をへて会津へ、そして越後へと、以仁王の足跡をおって道なき山中を実際に歩き、新潟県東蒲原郡上川村字中山では、遺跡「百八燈山」の発掘まで行っている。
明治14年8月5日完成した『高倉宮墳墓御事蹟考』はかくて、越後国東蒲原郡東山村枝村中山小倉嶺に以仁王御父子の墓があると結んでいる。
伝説の根元は、南会津郡の各村、大沼郡昭和村、西会津町の各所に、明治以前に書かれた『高倉宮潜竜記』がある。
読者が誤解を生む箇所があるので、少し説明を加えます。
『宮城三平氏の調査地が越後にまで及んだ』と記述しているが、宮城三平氏が調査したという越後の調査地は、新潟県東蒲原郡のみです。
この新潟県東蒲原郡は現在は新潟県ですが、昔(廃藩置県前)は、福島県に属していました。
従って、宮城三平氏の調査地は会津のみとなります。
新潟県内には、『三条下田吉ヶ平と小国』にも以仁王の言い伝えがありますが、ここには現地調査はしていません。
また、群馬県沼田市や片品村にも以仁王の言い伝えがありますがここも現地調査はしていません。
明治14年8月5日に宮城三平氏は福島県に『高倉宮墳墓御事蹟考』を報告した次の年、明治15年3月15日に福島県令として着任した三島通庸が宮城三平氏に、『以仁王逃亡記』が事実か否かを報告させています。
宮城三平氏は、会津の各地に伝わる言い伝えについて、事実であるという確証が得られず、止むを得ず、『以仁王逃亡記は言い伝えの域を出ない』と報告せざるを得なかったのです。
インターネットで見つけた次の文を紹介します。
福島県令三島通庸が『東蒲原郡東山小倉嶺の高倉宮以仁王の墳墓』について、伝説か否かの調べを明治十四年(1881)「高倉宮以仁王御墳墓考」を著述した宮城三平に依頼しました。三平は高倉宮について多くの疑問を持ちながら、新編風土記で『伝説』としての記述があり、これを覆す史料がなく、止むえなく伝説地とする新編風土記に従うこととしましたが、著書『会津温故拾要抄』の巻末に『余高倉宮御墳墓の事の於いて疑いを懐く』として、山城国相楽郡綺田郷鳥居村の春日大明神高倉宮は『春日神にして廟にあらず、古事によりて合祀するものにして御墳と認めるもの更になし。ここに至り東蒲原郡東山村中山高倉嶺の御墳の真なるを信ずる也』と述べています。
宮城三平氏は
「京都の高倉宮の御祭神は以仁王ではない。単なる故事(言い伝え)によって神社が建てられた。だから、以仁王のお墓ではない。東山村中山高倉嶺が本当のお墓であると信じている」と述べています。
前書きが随分と長くなってしまいました。
この『会津における以仁王の伝説』は、著者の安藤紫香氏が南会津に伝説として伝わる以仁王の関する言い伝えを現地調査を踏まえ取り纏めたものです。
その範囲は、前述の通り、新潟県の上川村中山(明治5年前は会津に属す)を含めた南会津です。
その他は、叶津から八十里越えを通り、越後吉ヶ平に到着、そこから加茂神社に至り小国領の頼之の迎えで小国に入り、その後、上川村中山に至ることが簡単に述べられています。
不幸なことに、安藤紫香氏は、南会津とその狭い周辺地域のみで以仁王の伝説を語ったが為に、宮城三平氏が受けたと同じような批判を受けてしまったのです。
さて、本題に戻ります。
安藤紫香氏の以仁王の逃亡物語は、何故か尾瀬沼山から始まります。
以仁王一行が沼山に着いたのは7月1日です。
そして、7月9日に尾瀬から南会津の方向に出発します。
奇妙なのは、桧枝岐村に伝わる ”以仁王と尾瀬大納言頼国の伝説” がこの本には記載されていません。
安藤紫香氏は、桧枝岐村に伝わる頼国の伝説は全くの別の物語として、意識的に記載しなかったのでしょうか。
桧枝岐村の言い伝えは、『村を出発した王の後を尾瀬大納言が追ったら、尾瀬に迷い込んだ』というのが、村に伝わる ”以仁王と尾瀬大納言頼国の伝説” なのですから意識的に記載しなかったというのも分からない訳では有りません。
つまり、王一行の逃亡の方角が南会津の伝説とは真逆なのですから・・・。
いやいや、安藤紫香氏ともあろう人がこの桧枝岐村の言い伝えを知らない訳がないのでは?と思い直し、再読してみました。
26ページに、「もしかして・・・これなのでは・・・」と思う文章を漸く見つけました。
「桧枝岐村史」を編集された、元桧枝岐村長で郷土史の研究をされている橘朝良氏を尋ねる。
まず参河沢(実川)や、矢櫃平が、現在の七入から沼山への道からみて、まるで別の方向に、以仁王の伝説がある理由について聞いたところ、昔の道は図で示すように、沼山から別の山道があり、実川に下り矢櫃平から七入に出る道が、今も残されているという。(原文のまま)
以下は、桧枝岐村に伝わる以仁王と尾瀬大納言頼国公の言い伝えです。
①尾瀬大納言
これは福島県檜枝岐村に伝わるお話です。
その昔、以仁王(もちひとおう)という落ち武者が、戦を逃れ山奥にある檜枝岐村にやってきました。以仁王は一晩だけこの村に泊まるつもりでしたが、お供の尾瀬大納言藤原頼国公が病に倒れてしまいました。追っ手を恐れた以仁王は、頼国公の回復を待たずに、ほかのお供たちとこの村を後にしていきました。
数日後、ようやく病状が良くなった頼国公は以仁王の後を追い、さらに山奥へと入っていきましたが、どちらの方角へ行けばよいかかいもく検討がつかなくなってしまいました。頼国公が足をとどめたその場所は、広い高原地帯となっており、人の気配がまったく感じられない地であったため、そのままひっそりと暮らすことに決めました。
「尾瀬」の由来は、この地で生涯を過ごした尾瀬大納言頼国公の姓からとったと伝えられており、檜枝岐村の中土合公園には石像が建てられています。
南会津での以仁王一行の逃亡経路は、尾瀬を出発点とした南会津方向です。
しかし、桧枝岐村の言い伝えでは、王一行の行き先、又は、尾瀬大納言頼国公の行く方向は何故か尾瀬なのです。
安藤紫香氏は、この矛盾を、元村長に尋ねました。
この問いに、村長は『別の山道がある』と説明しました。
上の地図をご覧になって下さい。
桧枝岐村は川に沿って集落が有ります。
川の両側は山です。
川上に行くか、川下に行くか、2者択一です。
別の山道が有ったという説明なんて、全く説明になっていませんよね。
結局、ふたりの会談は嚙み合わないまま有耶無耶のまま終わったようですね。
事実は ”どちらも正しい” のに・・・。
どちらも正しいとする説明は、”尾瀬大納言、尾瀬次郎、そして尾瀬三郎” を読んでください。
上州沼田や片品村にも以仁王の言い伝えが多く存在します。
にもかかわらず、この沼田や片品村の伝説には安藤紫香氏は全く言及していません。
更に、桧枝岐村に現れた尾瀬大納言頼国や沼田や片品村の尾瀬次郎、越後湯之谷村の尾瀬三郎と言う謎の三人の人物においてもこの本では触れられていません。
湯之谷村の尾瀬三郎の言い伝えは、『尾瀬三郎は湯之谷村に現れ、尾瀬を目指して山に入る』とあります。
これって、何故か、桧枝岐村の尾瀬大納言の言い伝えにどこか似ていると思いませんか?
さて、安藤紫香氏の纏めた『会津における高倉宮以仁王』には、如何にも怪しげな三名の公卿が登場します。
尾瀬中納言源頼実卿、小倉少将藤原定信卿、三河少将光明卿の三名です。
その根拠資料は『会津正統記』であると記されています。
そして、以仁王一行が尾瀬沼山を出発し南会津に向け逃亡を始めようとする時、何故か三名ともお亡くなったり怪我をしたりしています。
実は、この何とも怪しい公卿さん達が以仁王一行に加わっているということ自体が、民俗学の権威者柳田國男氏の『以仁王逃亡説が作り話である』という強い反論根拠となっているのです。
確かに、公卿即ち公務員が謀反者の以仁王を庇っての逃避行に同行しているだなんて、こんな割に合わない不都合なことはありませんよね。
従って、柳田國男氏の主張が断然正しいと誰もが思うに違いないのです。
しかし、沼田や片品の伝説、尾瀬大納言、尾瀬次郎、尾瀬三郎の謎の3人衆、桧枝岐村の逆方向逃亡事件、怪しい公卿集団等を並べて改めて考ええみると、全て、謎がすっきりと解けてしまうのです。
この謎解きについては、”尾瀬大納言、尾瀬次郎、そして尾瀬三郎” をお読みになって下さい。
さて、この『会津正統記』には、王一行のメンバーの名前が記されていると記載されています。
3名の公卿の名前があり、4番目には、『武士頼政未子乙部右ェ門佐重朝』と書いてあります。
頼政の血筋の武士が一行に加わっているのは頷けます。
注目すべきは、5番目に記された名前です。
『童名田千代丸』とあります。
何故か、幼い子供の名前が以仁王一行の中にあるのです。
安藤紫香氏は、この子供の名前が『会津正統記』に有ることについて、一切言及していません。
果たして、『田千代丸』とはいったい誰なのでしょうか?
この『田千代丸』こそ、以仁王逃亡説が史実である何よりの証拠となり得るのに、残念なことに、安藤紫香氏は気づいていないのです。
『田千代丸』というのは、以仁王の息子なのです。
以下理由を述べます。
その年の4月に遡ります。
以仁王は、『令旨』が清盛に知れた時、京の屋敷でのんびりと月を眺めていました。
そこに頼政からの知らせが届きます。
「謀反が清盛に気づかれてしまった。清盛が捕まえに来る。今直ぐ、琵琶湖畔の三井寺に逃げろ!」と。
この知らせを受け取った以仁王は、急遽、屋敷に居た幼い子と乳兄弟の宗信と三人で、徒歩で山越えをして三井寺に逃げ込むのです。
さて、その幼い子の名前ですが、平家物語では『鶴丸』と語られています。
この『鶴丸』と、尾瀬にいる『田千代丸』。
賢明な読者の皆さんは、もうお気づきですよね。
田圃に居て、千年生きるという生物・・・それは・・・『鶴』ですよね。
そうなんですよ。
『田千代丸』は、『鶴丸』なんです。
『鶴丸』は以仁王と一緒に平等院の戦場から逃れ、逃亡の旅に出、そして尾瀬に現れました。
尾瀬では、『鶴丸』という名前を変え、『田千代丸』になりました。
次に
頼兼改良等
渡辺丁七唱
猪野隼太勝吉
他13名
もう少し、『鶴丸』『田千代丸』について述べてみます。
京の都の以仁王と一緒に住んでいた『鶴丸』。
尾瀬にいた『田千代丸』。
京の都と尾瀬、相当距離が有りますよね。
中間地のどこかに、『鶴丸』がいないのだろうか。
京と尾瀬の中間地の甲斐の若宮八幡宮に、『鶴丸』の痕跡が有りました。
若宮八幡宮の前の望月家に『鶴丸君がご使用になった井戸』が有ります。
柿花仄氏の『皇子・逃亡伝説』の中に、記載されているのを見つけて、望月家を訪問しました。
その様子は『以仁王の御廟所とその令旨』をお読みください。