【会津の伝説】
ー高倉宮以仁王の会津潜行記ー
帯紙
奥会津に伝わる皇子逃亡記
京都にて討死したはずの高倉宮以仁王が生きていた。逃亡の伝説は、尾瀬ヶ原を通り、奥会津を抜け、新潟県にまで及ぶ。悲しい運命の波にのまれた貴人の伝説が今、明かされる。
書店に並べられる本には通常『帯紙』が巻いてある。
この『会津の伝説』の帯紙には、『奥会津に伝わる皇子逃亡記』と記され、その下に説明文が書かれている。
この『会津の伝説』の著者は、『安藤紫香氏と滝沢洋之氏』である。
安藤紫香氏は、『会津における高倉宮以仁王』の著者でもある。
私は、『会津における高倉宮以仁王』について、3人の巻頭言を書いた人と、安藤紫香氏の思いの隔たりの大きさに驚いたと先に書いた。
しかし、今回のこの著書『会津の伝説』の『はしがきー序にかえて』を読む限り、安藤紫香氏の本音が何故か私の心に伝わってこない。
それが何処なのか、分からないが、文章が凄く遠慮がちでかつ優しいのである。
あとがきで共著者の滝沢洋之氏が述べておられる。
「安藤氏は昨年米寿を迎えられた。新版の発行に当たっては体力的にも無理なのでその記述は全面的に私に任せられた。書くにあたっては、安藤氏の旧版を基に柿花仄『皇子・逃亡伝説』・鎌村善子『御擬装の大塔宮』などを参考に書き直した。」
とある。
この文章で、私の心の中のもやもやの違和感が漸く解けた。
これまでの以仁王逃亡説についての調査や書籍を年代別に並べてみよう。
1881年8月 宮城三平氏以仁王伝説の調査完了。『高倉宮墳墓御事蹟考』を発表。
1882年3月 宮城三平氏、福島県令から真偽を問われ『高倉宮墳墓御事蹟考』は伝説の域を出ないと苦渋の報告をする。
1942年 柳田圀男氏が『史料としての伝説』を出版。『以仁王逃亡説は会津の木地師の創作である』と書く。
1977年 安藤紫香氏『会津における高倉宮以仁王』を出版。巻頭言の執筆を依頼された3名は『創作の逃亡説なのに 』と記すが、著者の安藤紫香氏は『私は、会津に伝わる伝説をただ取りまとめただけです』と記した。
1993年 柿花仄氏『皇子・逃亡伝説』を出版。偶然発見された北原家と高橋家の所有する2本の巻物に、以仁王が『越後国小国領』に来たと書いてあった。
2007年5月 安藤紫香氏『会津の伝説』を出版。巻頭言に柳田圀男派(以仁王逃亡説を創作だと主張する3名)を排除。
今一度、帯紙を注意深く読んで欲しい。
”京都で討死したはずの高倉宮以仁王が生きていた”
とはっきりと明快に断定的に書いてある。
この『生きていた』という文章こそ、安藤紫香氏が心の奥から言いたかったことではないだろうか。
『逃亡の伝説は、尾瀬ヶ原を通り、奥会津を抜け、新潟県にまで及ぶ』
ここで言う新潟県とは、宮城三平が調査した新潟の小川庄中山ではない。
越後の国『小国』で発見された北原家と高橋家の所有する2本の巻物のことだ。
越後の国『小国』でも、『以仁王は生きていて越後小国に現れた』という新しい証拠が発見されたと主張したいのだ。
『奥会津に伝わる皇子逃亡記』では、柿花仄氏の『皇子・逃亡伝説』の『皇子』という文字を使用していることからも安藤紫香氏の心中が垣間見える。
”奥会津の以仁王逃亡説に関して柳田圀男氏理論を信奉し、そこからいつまでも抜け出られない方々”
に私は言いたいと思う。
”新潟の『小国』では、木地師なんぞが活躍したという歴史は聞いたことが御座いませんよ”
と。
ところで・・・帯紙というのはそもそも誰が作るのだろうか?
いろいろと調べていくと、どうも出版社が新刊書を売りたいがために帯紙を本に巻くそうである。
著者の安藤紫香氏も共著者の滝沢洋之氏も、主張はすごく優しく穏やかである。
ならば・・・
ということで出版社の責任者或いは担当者が、安藤紫香氏の心中を察して、「それならば・・・」と帯紙に
「京都で討死したはずの高倉宮以仁王が生きていた」
と断定的に書いたのではないだろうか。
前書きが随分と長くなってしまいました。
本の内容について、述べてみよう。
先の『会津における高倉宮以仁王』とこの『会津の伝説 高倉宮以仁王の会津潜行記』の相違点を探してみよう。
先ずは、京からのルートについてであるが、『会津における高倉宮以仁王』では、これに関しての記述が有りません。
一方の『会津の伝説 高倉宮以仁王の会津潜行記』では、三つのルートが紹介されています。
①南都ルート
②北西ルート
⑶越後を目指すルート
柿花仄氏の『皇子・逃亡伝説』を参考にしたのだと思います。
当然、『会津の伝説 高倉宮以仁王の会津潜行記』は③の越後を目指すルートです。
そして、この越後へのルートには二通りあると記載されています。
その一つは、日本海を北上し越後に至るルートです。
『会津の伝説 高倉宮以仁王の会津潜行記』では、『宇治から淀川を伝って駿河国までの水路。駿河から伊豆国さらに甲斐国、信濃を経て上州沼田への道をとった』というルートだと記載しています。
私は、逃亡ルートが陸上であれば、必ず道周辺の人々に見られてしまい、逃亡の様子が言い伝えとして後世に語られてしまうと考えていますから、三井寺から琵琶湖経由で東海道を北上するルートの可能性は凄く薄いと考えています。
更に、以仁王は三井寺を出た後、6回も落馬していますから、徒歩になります。
それに、幼少の鶴丸も一緒にいます。
逃亡一団の人数は15人から20人でしょうから、目立ちます。
日頃から足を鍛えていない以仁王では、東海道を連日連夜の徒歩は絶対に無理でしょう。
従って、『宇治から淀川を伝って駿河国までの水路』というのは私の思考と完全に一致します。
尚、三井寺から宇治平等院までについても私は川舟を使ったと思っています。
途中の中継点を駿河国としていますが、これは、柿花仄氏の『皇子・逃亡伝説』中の『若宮八幡宮』の場所が根拠だと思っています。
しかし何故、駿河国が中継点なのでしょうか?
このことについては、『以仁王の御廟所とその令旨』を読むと充分理解できます。
つまり、駿河国阿倍川の下流に八条院領服織荘が有ったというのです。
八条院領服織荘が頼政の首を携えた渡邉唱と以仁王一行との待ち合わせ場所なのです。
ここで、渡邉唱はこれからの逃亡に必要な資金と資材を調達しました。
八条院領服織荘の持ち主は八条院あき子です。
そして以仁王もその子供達も八条院あき子の猶子となっています。
渡邉党は、八条院領服織荘から京の八条院への米や特産品などの海上運搬を担っていたのでしょう。
しかし、このことは、何れ、京の都に噂として伝わってしまいます。
藤原兼実の日記「玉葉」にこのことが書かれています。
兼実は、八条院あき子にこの噂を内々に報告します。
八条院あき子は兼実に『鶴丸』を見つけ出すように懇願します。
兼実は6年間必死で駿河国内を探します。
しかし見つけることは出来ませんでした。
この時、『鶴丸』は以仁王と共に会津から越後国小国へ行き、『カン丸』として預けられました。
越後国小国で偶然発見された日本の巻物。
子の巻物の内容は、柿花仄氏『皇子・逃亡伝説』をお読みください。
八条院領服織荘を出発した一行は、阿倍川上流を目指します。
そして、苅安峠を経て、若宮八幡宮に到達します。
ここで以仁王はお亡くなりになります。
鶴丸は、誰かに預けられたと言い伝えられています。
私は、以仁王は亡くなったことにして、富士川を舟で下り、太平洋に出たと思っています。
これは秘密ですので、村人達には、『駿河から伊豆国さらに甲斐国、信濃を経て上州沼田への道』にしたと思っています。
兎に角、陸上ルートは危険すぎるのです。
次の論点は、一行のメンバーについてです。
『会津の伝説 高倉宮以仁王の会津潜行記』によると
正確に、原文のまま記すと
尾瀬中納言源頼実卿(大納言藤原頼国の弟)
参河少将光明卿
小倉少将藤原定信卿
乙部右衛門佐重朝(頼政未子)
田千代丸(童名)
良等(頼兼改め)
渡辺長七唱
猪隼太勝吉
西方院寂了(長谷部長兵衛信連の一族)
其の他六位の北面の武士13名
(『会津正統記』『高倉宮御伝記』)
となっています。
これを読んで「あれっ。何か変だぞ!」と思い、『会津における高倉宮以仁王』を開きました。
『会津における高倉宮以仁王』では、下記のように記載されていました。
『会津における高倉宮以仁王』
「会津正統記」
尾瀬中納言源頼実卿
小倉少将藤原定信卿
三河少将光明卿
武士頼政未子乙部右ェ門佐重朝
童名田千代丸
改頼兼良等
渡辺丁七唱
猪野隼太勝吉
其他六位北面凡13人
「高倉宮会津紀行」
尾瀬中納言源頼実卿
三河少将光明卿
小倉少将藤原定信
乙部右ェ門佐重朝
渡辺丁七唱
猪野隼太勝吉
其他六位北面凡13人
西方院寂了(長谷部長兵衛信連の一族)
少し分かりづらいのですが、『会津正統記』と『高倉宮御伝記』は一行のメンバーが違うのです。
『高倉宮御伝記』には、私が注目している『鶴丸』がいないのです。
もう一人、『改頼兼良等』もいません。
その代わり、『西方院寂了』が追加されて加わっています。
しかも、その他13名の下に加えられているのです。
『西方院寂了』は途中から加わったと考えてもいいのかもしれません。
途中から加わった人と言えば、『猪野隼太勝吉』もいますが、彼は一行の中心メンバーで名前を書かれていますから、『西方院寂了』は尾瀬ヶ原以降でしょうか?
更に議論を深めていきましょう。
このように、『会津正統記』と『高倉宮御伝記』はメンバー名が異なるのにも関わらず、『会津の伝説 高倉宮以仁王の会津潜行記』では、何故、安藤紫香氏は、同じとしたのでしょうか?
単なる間違いとするのは安易過ぎます。
理由が有るはずです。
『会津正統記』に書いて有るメンバー名をもう一度、読んでみました。
実は、『会津正統記』の原本を読みたいと思い、新潟県立図書館の蔵書検索をかけましたが、見つかりませんでした。
福島県内にはどうかと検索しましたが福須磨県内の図書館にも有りません。
『会津における高倉宮以仁王』に、一行メンバー名にかかる箇所が有るのでこの文について見てみます。
下に、その個所の写真を載せます。
左行から5行目の下の方の、『御供には・・・』から始まる文章に注目します。
公卿3名の人名の後に句読点が打たれています。
しかし、元々の原本に句読点が有るのかどうかは分かりません。
兎に角、公卿3名の人名が句読点で区分されています。
ところが、『武士頼政未子・・・・・・』はどうでしょう?
『・・・・・・良等』まで句読点が有りません。
その次の人名には、明らかに句読点で区切っています。
もしかして『武士頼政未子・・・・・・千代丸・・・・・・良等』これで一人ではないのだろうか?
千代丸は以仁王の子です。
しかし、この事実は秘密中の秘密なのです。
真実を明かすことは出来ません。
それで、『頼政の未子の乙部重朝(幼児名は田千代丸で更に名を頼兼に改め、良とも称す)』としたのではないでしょうか?
最初に書かれた3名の公卿さん達は、カモフラージュでした。
そして、『鶴丸こと田千代丸』は頼政の血を引いた子供としました。
誰が、こんな突拍子もないことを考えたのでしょうか?
それは、もう、渡邉唱と猪隼太でしょう。
もしも、武士である乙部さんが、頼政の子であるなら、この一行を率いる総大将は乙部さんでなければなりませんよね。
でも、どう考えても、一行を率いている総大将は渡邉唱ですよね。
参謀役は、猪隼太勝吉です。
ところで、『・・・良等・・・・・・』って如何にも妙な名前ですよね。
「りょうちゃん等と皆から呼ばれていました」とでも言うのでしょうか?
と考えていた時、脳裏に何かが閃きました。
『田千代丸』と『良』の文字が突然繋がったのです。
甲斐路の若宮八幡宮の以仁王を書いた望月清歳氏『以仁王の御廟所とその令旨」の中に
三宮導性に関する記録は九条兼実に日記「玉葉」に前後七回に亘ってその行方等に関し風聞としての記述が見える。
その一は治承四年五月十六日の条に三宮導性(良久王)五月十五日逐電云々(父宮以仁王の童子鶴丸として三井寺に潜行)
と有るのを思い出しました。
成程、田千代丸は良ちゃんだったのです。