【嵐渓史】
嵐渓史は明治45年に発行されている。著者は、小柳一蔵である。
ネットで小柳一蔵を検索すると一つだけ出てきた。
五十嵐神社昇格に一身を捧げた小柳一蔵
明治の申し子のように維新とともに生まれた小柳一蔵は、祖父伝平の薫陶を受けて、村社五十嵐神社の昇格運動に生涯をかけ、その資金を得るために執筆活動を行ったといってもよい。
祖父伝平は幕末、下田の庄屋を務めていたが敬神の心篤く、その頃岩代国(福島県)から伝平の家を訪ねてきていた宮城三平の学識に触れ、五十嵐神社の昇格運動を始めた。その理由は明治四年、神社に格式をつけ、国幣社、官幣社、県社、郷社、村社、無格社とし、五十嵐神社は村社に決定された。しかし後醍醐天皇の皇子、護良親王を祀った鎌倉宮が官幣中社であるのに、垂仁天皇の皇子、五十日帯日子命を祀った五十嵐神社が村社なのは、あまりにも片手落ちではないかということだった。そこで早速、県や国(宮内省)に働きかけ、当時小さかった神社を、これでは官幣社としては小さすぎると、県から七〇〇円の助成金を仰ぐとともに、自分でも二〇〇〇円を拠出。足りないところは篤志家から寄付をつのって、営繕、用材、出納の責任者に三瓶伝六を命じて、明治八年に現在の五十嵐神社を建立し、社地も寄付して官幣社としての体裁を整えた。その上で何回も(当時、鉄道の便がない)上京して宮内省にかけあったが、「確たるものがない」と認可にならず、附近にある陵墓らしきものに「御陵墓伝説地」と標識を建てることが許可されるのみであった。それで伝平は『五十日帯日子命御神徳略記』を一枚の印刷物にまとめて世間に宣伝したり、また五十嵐一族の分家である五泉の五十嵐家にも頼み、ともに県や国に嘆願書を提出して昇格を願ったが、伝平生存中は実現できなかった。しかも明治二十一年には息子の元平が死亡し、孫の一蔵が戸主となった。伝平は神社のことを一蔵に託して、明治三十五年に七一歳で死亡した。
一蔵は、「私の志を継ぎ、終始怠ることなかれ」との祖父の遺言の通り、家運が傾くことも意に介さず、ただひたむきに神社のことにのみに力を打ち込んだ。どうしたら昇格が可能になるか、手づまり状態であった祖父の事績を調べ、祖父が懇意にしていた、笹神村出身の多額納税貴族院議員五十嵐甚蔵が、新潟県の歴史を調べていることを知り、甚蔵が雇っていた歴史学者に五十日帯日子命の事績を調べてもらった。一蔵の刎頚の友であり、鹿峠村々長の長谷川弘が社務所を改築し、当時南蒲原郡長田宮従義が県や国への交渉、事務手続きを受け持ち、一蔵は基本財産の増殖に努めることとして、初めから官幣社をねらうことは無理であるから、先ず県社昇格を目標として運動することになった。
小柳一蔵(かずぞう)
明治元年(1868)-大正12(1923)
集落:飯田
その頃神社の主管は宮内省から内務省に変わっていたが、内務省の言い分は、「基本財産が少ないことと、年間の参拝者や氏子の数が少ない」ということであったので、一蔵は鹿峠地区から他郷に出ていった人たちにも氏子になってもらったり、基本財産を増やすために、交際のあった有名な京都の画家、富岡鉄斎翁が意気に感じて無償で描いた初日の出の掛け物を、当時パトロンのような形で励ましていた田上町の豪農、田巻三郎兵衡に一六○○円で購入してもらったり、知人に願って寄付を仰いだりしたが、自身でも神社財産の一助にもと一念発起したのが文筆の道であった。
一蔵は生来語学的才能が抜群であった。その当時の町村の知識人であれば、まず漢学の素養は欠かせないものであった。これは漢詩まで自由に作れた一蔵は全く苦にしない常識であったが、英語も完全にマスターしていた。一蔵は手始めにイソップ物語を漢詩に翻訳した。これは漢学も英語も相当の深みまで学習していなければ到底出来ることではないが、しかも一蔵は英語を独力で学習したとなれば、一蔵の才能おして知るべしである。この本を出版して、利益金は全部基本財産に繰り入れた。明治四十四年、建白書のほか諸々の資料を持って内務省に出かけ嘆願した時も、『宇宙道義』なる出版物を東園家に提出し天覧にあずかった程である。その他『人道原論』、『越の家苞』、布衣の誠』、『嵐園記念』、『大正記念」等を出版しつづけたが、その中で一番有名なものが『嵐渓史』である。
『嵐渓史』は巻頭に五十日帯日子命、八十里越えをしてきた高倉宮、鏡が池のある三千坊、大蛇が棲む雨生池、祖父伝平が作った楽々園を得意の漢詩でつづり、以下その当時合併せず下田郷と称せられていた一地域の歴史を述べ、また物産、地理等も記載し、鹿峠村、長沢村、森町村の神社、仏閣、旧跡、豪農、著名人、伝説等多岐にわたってくわしく述べている。一蔵以前にはこういった書物が残されていなかったので、下田村文化財調査研究会で昭和四十四年復刻版を作って配布した程である。
一蔵はこれ等の書物を基本財産を作るという一念で次々に出版し、売上金のことごとくを基本財産にまわしたのである。
このような苦労を営々と積み重ねて神社昇格に尽くしてきた一蔵にとって、その結果はあまりにも冷酷なものであった。大正十年三月、明細帳変更願に氏子の増加、基本財産の増額も書いて県に提出し、認可が下り内務省へ書類が送られた。一蔵は一日千秋の思いで昇格を念じていたが、内務省の人事異動で今まで懇意にしていた局長も主任官も入れ替えとなり、たのみの綱である朋友、長谷川弘は大正十一年末で村長をやめ、また田宮郡長も翌年二月で退職が決まり、いても立ってもいられない思いで、二月末豪雪の中を郡長を訪ねたが、引き継ぎの事務に紛れ、しみじみとした話も出来ないまま、重い足を引きずりながら帰るより他すべはなかった。万策尽きた一蔵は、「神社の昇格せざるは小生の良心に於いて苦しく候」と、縊死をとげた。驚いた村人は蜂の巣をつついた状態となり、急蓬、長谷川弘は氏子総代とともに上京し、日頃後援している田辺熊一衆議院議員を訪ね、内務省に出頭し局長の面前で、これまで何回となく建白書を出したにもかかわらず、少しの反応もないまま打ち過ぎ、とうとう責任者が自殺してしまったいきさつを縷々述べて昇格を迫った。局長も事の成り行きに驚き、直ちに大臣に申し述べて即刻県社昇格が決定した。一蔵が自殺したのが四月一日で、昇格の内報が役場に届いたのが四月十七日、異例の早さであった。一蔵の一命が昇格をつかんだといってよい。
遺言により、自宅を常に見渡せる小高い丘の中腹に墓石が建てられた。
生前、一蔵は和漢の書物に親しみ漢詩に長じ、著書『嵐渓史」の中にも三〇首近い漢詩を残している。
嵐渓史の内容に触れてみる。
一般的な著作物の「巻頭言」にあたる所は「序」となっていて、漢文調で「我が嵐渓の地は・・・我が越の開拓の祖たる皇子五十日足彦命【イカタラシヒコノミコト】の居を営み給ひしを始めとし、高倉以仁王の平氏の難を斯地に避け給へる、或は、北條時頼の・・・」と神様の次に以仁王のことが述べられている。
次に、
〇嵐王子
〇高倉宮
〇三千坊
〇眞生池
〇楽々園
の漢文が並ぶ。
この漢文の出所は明らかになっていない。
漢文の途中に
列座相〇悉嘆息
葬王其地〇〇〇
のような〇印があることを考えれば、古い巻物のような文字で書かれた古文書を引用していると思われる。〇の部分は、古文書の文字がかすれて読めないか、虫食い部分で読めないかだろう。
そして、19ページ目からようやく目次となっている。
目次は、まず総論があり、次いで、鹿峠村、長澤村、森町村と下田郷を三つの村に分けて、各項目別に由緒などを述べている。
八十里越には以仁王に関連すると思われるいくつかの地名が今も残っている。
吉ヶ平集落には、伊豆守仲綱の墓が今も存在する。
嵐渓史では、仲綱が以仁王に同行して吉ヶ平まで来たが、病にかかり、ここで亡くなったと書いてある。
私の見解は、甲斐路と会津の伝説に仲綱の名が見えないことから、やはり仲綱は、平等院の戦いで戦死したと思っている。