以仁王生存説の真相を探る
【皇子・逃亡伝説】
『以仁王は、平等院の戦いの直後、興福寺へ逃げる途中で戦死したというのが日本の歴史上の正史であり、南会津の各地に伝わる以仁王逃亡伝説は、絶対に有り得ない創作話である』とするのが現代の通説ですが、柿花仄著作のこの 『皇子・逃亡伝説』では、現代の通説に真っ向から対峙する。
柿花仄氏は彼の著書 『皇子・逃亡伝説”』の前書きにこう述べています。
これまでの段階で『できすぎた話』とされているのに、さらに二つの巻物が加わる。『でき上りすぎた話』となるのか。しかしこれほど勢ぞろいすれば、もう一度原点に戻って謙虚に検討すべきだ。まっ更な心で対座して初めて答えも出るはずで、さもなければ真実は遠くに逃げて行ってしまう。
『皇子・逃亡伝説』第1章は、著者と巻物との出会いから始まります。
昭和63年春に所有者の北原良一氏から偶然巻物の内容鑑定を依頼されたのが出会いの始まりです。
この巻物は、北原良一氏に依れば、代々北原家に伝わる物で、何故か代々の家長の外披見することが出来ないばかりか、家人にさえ記載の事項を語ることが出来ないことになっているという。
その後発見された2本目の巻物は、同年夏、小国町の旧家髙橋家から家を取り壊すことになり大きな仏壇を動かしたところ錦の袋に入った巻物が出てきたという。
巻物の内容解読を依頼され、調べ出した柿花仄氏は、まず最初に巻物に書かれた主人公探しを始めます。
そして、”以仁王” が巻物の主人公だと決定します(19~20ページ)。
しかし「京で戦死したはずの以仁王が、何故、新潟県小国の巻物に書かれているのか?」との当然な疑問から、会津を始めとする全国各地に伝わる王の逃亡伝説等を調べ始めるのです。
第1章から第3章までが ”以仁王逃亡伝説” であり、読み物としては最高に面白い。
正史が見事に覆されたことが全国各地の言い伝えとして伝わっているのだから。
特に第2章の平等院の戦いでの頼政の作戦、即ち、以仁王の脱出トリック作戦がこの本を読む人の心を虜にしていきます。
しかし、脱出トリックがこの2本の巻物に書かれている訳ではない。
更に、以仁王の実名も文字として書かれている訳でもない。
”天王” だとか ”大王” だとか ”王印” という文字が ”以仁王のことらしい” と著者は判定したのである。
第4章からいよいよ巻物の本文に入る。
ところが、第4章から、突如、難解な文章になります。
著者自ら「巻物は、1回目よりは2回目、2回目よりは5回目と、順を追うごとに難しさを増す古文書である」と述べています。
第4章以降を何回も何回も読み直すうちに、何となく分かってきたことがありました。
柿花仄氏は、この巻物の主人公は ”以仁王である” と第1章に書いてあります。
どうやら、私は、この言葉に、完全に惑わされていたのです。
また、221ページに「この巻物は、熊野に向けて小国を出られた後の以仁王と、源三位頼政一族の記録だと推察した」ともあり、これも私の頭をしばらくの間狂わせてしまったのです。
そこで、北原家の巻物は「北原家の先祖の歴史を書いたもの」、高橋家の巻物は「高橋家の先祖の歴史を書いたもの」、と単純明快に解釈を変えてみたところ、漸く見えてきたものが有りました。
『皇子・逃亡伝説”』第4章に戻ります。
第4章は ”越後を去る” です。
越後を出るの項(去るといって出るというから混乱するが言ってることは同じ)では 、簡潔にまとめると両巻物とも「頼朝が平氏に富士川合戦に大勝した頃(10月)、天皇が以仁王と妃と王子を招集した。それで、小川庄の御所を熊野宮井に向け出発した(222p)」と両巻物共に書いてあるという。
ここでまた、私のぼんくら頭が混乱するのです。
小川庄(固有の文字で書いてあると思う)とは、小国からは100㎞以上も離れた上川の中山集落のある場所です。
以仁王は確か小国領に入ったと巻物に書いてあったのではないか?
その頃は8月頃。
しかし、10月には、巻物によると以仁王は小川庄にいた?。
そして、天皇からの招集があったという。
誰に対して?
当然、北原家と高橋家が住んでいる小国領主に対してだろう。
ということは、以仁王の生存が都に居る天皇に明らかに確認されていたことになってしまう。
いや、そんな筈がない。
都では ”以仁王は死んだとなっているはず!”
柿花仄氏はこの点だけ、どこか読み間違いをしているのではなかろうか?
222pを再度読み直してみる。
「天皇は、公卿と殿上人を招集され・・・」
「この御言葉は、天皇の出家宣言でもあるので・・・」
「しかし、天皇の思し召しは堅く動かない。そして、妃と王子とともに、小川庄の御所をご出発なされた」
「天皇ご一家はお三人で一つ車に召され、・・・」
ようやく柿花氏の解釈の間違いに気が付いた。
巻物は、以仁王のことを天皇と表現しているのではないだろうか。
前にも書いたが、”天皇” なんて語句は用いてない筈だ。
北原家と高橋家の先祖にとっては、以仁王は正に『天皇』そのものである。
私の解釈はこうだ。
熊野宮井に向け出発したのは、鶴丸(田千代丸)を預けた父親と母親と本人鶴丸だ。
実親の ”以仁王” は、小川の庄に隠れたままだ。
つまり、その ”天皇(以仁王)” の子 ”鶴丸” は、天皇(以仁王)から預かった。
そして、天皇(以仁王)の子 ”鶴丸” は北原家、高橋家の始祖なのだ。
このことは両家としては広く公言したい反面、逆に決して言ってはならない事実であるとも言える。
何よりも、以仁王が頼之の頭領頼政の命により小国領まで来たのに、小川庄へ追い返してしまった。
それらのことを誰にも言わないまま、100年近く時が過ぎた。
100年後の今、真実を残そうではないか。
その結果、二つの巻物が出来上がることになった。
これが私の解釈である。
巻物に戻る。
熊野宮井に着いて、以仁王は王子の身の振り方を考えたようだ。密かに、鈴木言守の一門に若宮を入れた。
上文の ”以仁王” は ”北原家の先祖” と読み替える。
鈴木氏の一門で成長した若宮は9歳になり、カン丸と名乗った。
熊野宮井を出て、鎌倉入りをなされた。
鎌倉殿でカン丸の元服の儀があった。
名は「北原二郎正成」
北原家の祖となったのである。
これらのことは、両巻物共に記されているそうだ。
結論です
2本の巻物は、それぞれ、北原家、高橋家の系図を表したものである。
北原家の祖は、以仁王の子(鶴丸=>田千代丸=>カン丸)である。
以仁王の子が何故北原家の祖になったのか?は、”以仁王が越後国小国に来た時に、子を預けた” からだ。
以仁王本人が、熊野宮井に行ったかどうかは大いに疑問。
京の都では、既に死んだとされる以仁王が今更行ける筈がない。
巻物の読み間違いか?それとも解釈間違いか?
熊野宮井に行ったのは、子の育ての親である?
育ての親なら、妻(妃)がいるのは自然。
熊野宮井で鈴木言守の一門に鶴丸(=カン丸)を入れた。
鶴丸(=カン丸)は元服して北原二郎正成になった。
しかし、何よりも 『皇子・逃亡伝説』が我々にもたらしたものは、”以仁王の逃亡説” は二本の巻物の発見により史実であると証明されたいうことだ。
このことが最も価値が有り、重要なことだと私は思う。
尚、柿花仄著『皇子・逃亡伝説』は、今も古書販売しています。
興味のある方は、是非、ご自分で購入し、この本の内容の真偽を楽しんでください。