秘境吉ヶ平
会津の伝説では「以仁王一行は会津叶津村から八十里越を経て、越後の吉ヶ平に入り、加茂神社を経て、小国の城に入った」と語る。
八十里越を越えてきて以仁王がたどり着いた越後の吉ヶ平とはいかなる所だろうか。
昭和46年に吉ヶ平集落は、集団離村した。
この「秘境吉ヶ平」は、吉ヶ平集落が閉村した記念に、蝶名林竹男氏が吉ヶ平の歴史的な歩みについて刊行したものである。
高倉宮以仁王については、村の歴史の冒頭に説明が始まる。
その8pから12pの4ページのコピーを下に載せることとした。
吉ヶ平集落は、奥深い山の中の集落である。平らな場所は少なく、昭和30年調査では26戸と小規模な集落である。今から800年以上も前の1183年にすでに吉ヶ平集落があったということについては、まことに驚かざるを得ない。
そして、以外と思われるが、以仁王のことに関しては、多くの言い伝えが残っている。
「秘境吉ヶ平」に書いてあることを整理してみる。
1 以仁王のことが巻物に書いてあるという。(吉ヶ平区長 椿平太郎氏の序文より)
「治承4年5月、高倉宮以仁王、平家討伐の魁をなし給ひし時、以仁王、時運未だ至らず敗れ、会津黒川の叶津といふ処より八十里越の険を冒し、吉ヶ平にお着き給ひし時、伊豆守仲綱公病に罹り、以仁王、乙部右ェ門尉に命じ御看護せしむ。然るに仲綱公遂に吉ヶ平の地に没せられ、遺体は吉ヶ平字上の平といふ処に葬せり、後、乙部氏は此の地に留り、旧里正椿氏は乙部右ェ門尉の裔なりといふ。乙部氏は大職冠藤原鎌足の遠孫にて、高倉宮以仁王の重臣なりしといふ。」
2 本文中には、会津での一行の行動のことは触れられていない。
3 「吉ヶ平にはしばらく居住された。」
4 「吉ヶ平からは、以仁王は家臣を従えて、上谷地ーー七谷ーー村松を経て東蒲原郡三川村に落ちのびて行って、彼の地で亡くなられたと伝えられている。」
5 吉ヶ平の言い伝えには、小国に向かったとは伝えられていない。この謎解きは、シンプルに考えたい。加茂神社の近くが七谷である。一行の内、以仁王とその子鶴丸(田千代丸)と数名(渡辺唱、猪隼太)は七谷で別れ、加茂神社から小国領に向かい、他の一行は、七谷から村松を通り、小川庄に向かったと思われる。村松にも王の足跡が残っているという(未確認)。