【高倉宮以仁王を誄し奉る】
京都府綾部市高倉町にある高倉神社の御祭神は高倉宮以仁王である。
高倉神社由緒略記には「高倉宮は南都に向かって御落延びの途中、光明山において流れ矢の為に斃死されたと偽り、実は・・・(中略)・・・丹波路に供奉して・・・(中略)・・・ご負傷の宮を随従の諸氏と共に御介抱を尽くしたが御矢屁次第に重く終に死去になった・・・」 と記す。
平成21年秋、アポイントも取らずに、高倉神社を訪ねた。
神社前の民家に飛び込み、宮司さんへの連絡をお願いしたところ、直ぐに自宅から駆けつけていただき、四方宮司さんから社務所に案内され幸運にも直接お話を聞くことが出来た。
その時に頂いたのが冊子【高倉宮以仁王を誄し奉る】である。
四方宮司さん曰く「この地で以仁王はお亡くなりになったのです。これは事実なのです」と。
私は「本物の王は会津から越後に逃げたのでは・・・」と意地悪な質問をぶつけた。
四方宮司さん「その会津の伝説は十分知っていますよ。でも、会津の以仁王逃亡伝説のいずれも、会津の方々が自ら単なる作り話ですと表明しておられるじゃないですか」と優しく反論されぐうの音も出なかった。
冊子から以仁王の宇治平等院から奈良興隆寺へ向かった行動を見てみよう。
冊子によると、
『以仁王一行の規模は40騎だ。この中には、頼政の嫡男の仲綱や以仁王の屋敷から三井寺に同行した宗信がいる。追っ手の平家方は350騎。平家方の大将は平判官飛騨守景高で、井手の渡し筒井提で王は取り巻かれ行く手をふさがれ打ちかかられた。この時、阿闍梨慶秀が王を法衣の蔭にかばいつつ堤下の草むらに身を隠し息を殺して時を待った。上では・・・豪勇無双の藤原俊秀宮を名乗って打って出て、・・・ついにあえなく最期を遂げた。この時、敵将景高走り寄り俊秀の首をはね、勝どきあげて意気揚々と引き上げた。宮は漸く危機を切り抜けて・・・丹波地さして落ちていった。』
とある。
いくつか、気づいたことを記しておこう。
平家物語では、頼政の嫡男仲綱は宇治平等院内で戦死したと語られているのに対し、この冊子では、王と一緒に平等院から逃げている。
更に、井手の渡しの戦いで仲綱が戦死したとは書いていない。
平家物語では王の最後の現場は、光明山寺の大鳥居の前となっている。
この場所と、冊子で言う、井出の渡しの戦いの場所が同じかどうかについては、高倉神社のホームページなどで木津川市山城町と説明してるので同じ場所であろう。
身代わりで死んだという俊秀は、敵からの矢傷を受けてとは、明確に表現していないのも平家物語との相違点。
平家物語では、沼に入って宮の最期を見とどけて、京に戻る宗信は、冊子では、この場所で戦死する。
王の子鶴丸は、三井寺まで一緒に来たとしているが、その後、どうしたのかの説明がない。
平家物語では、王が光明山寺の大鳥居の前で戦死した時、興福寺からの僧兵はすぐ近くまで来ていたとするのに対して、冊子では、草むらに身を隠して切り抜けた王は、最初の目的地である南の方角の興福寺に向かわず、何故か全く逆方向の北の方角の丹波地を目指している。
以仁王は矢傷を負っているという。それが原因で、現綾部市高倉神社の場所に着いたが村人たちに見とれながらお亡くなりになった。
となると、矢傷を負った場所は、井出の渡しの戦いの場所以外に考えられない。
断わっておくが、平家物語の方が正しいとは思っていない。
以仁王が矢傷を負いながら綾部まで逃げてきて、ここで農民の手当の甲斐もなくお亡くなりになったという事実は正に史実であろうし、その時以来綾部市の皆さんが以仁王を現在も大切にお祭りしているということに対し、うらやましいとすら感じている。
片や、会津の方々が自ら王の逃亡説を否定するのとは、正に雲泥の差があるとさえ思っている。
<後日談であるが>
2008年3月、越後の高倉神社のある中山集落の区長さん宅にお伺いした時に見せていただいたのが、下の写真高倉天一大神のお札だ。
紛れもなく、綾部市の高倉神社のお札だ。
「なぜここに?」と聞いたが、区長さんは何故か言葉を濁された。
私は、それ以上の質問をしなかった。
重苦しい空気感を感じたからだ。