以仁王は、「平家物語」の中で、平家滅亡へのきっかけを演じた者として日本歴史の表舞台に突如登場し、その後、僅かの期間で歴史から消えてしまいます。
源頼政が以仁王を訪ね、平家追討の「令旨」書かせたのが、4月9日。
その「令旨」の内容が、5月上旬には平清盛の知れるところとなり、激怒した清盛は以仁王を臣籍降下させ、「源以光」と名を改めた上で、土佐国への配流を決めたのが5月15日。
その後、宇治平等院での戦いに入り、以仁王は密かに宇治平等院から奈良興福寺に向け出発したにもかかわらず、山城国相楽郡の光明山大鳥居の前で、平家軍から放たれた流れ矢が脇腹に突き刺さり命を落とされたのが5月26日となっていますから、実質38日間です。
この後、亡くなった筈の以仁王が「実は本物の王ではなかったのでは・・・」という噂が巷間に流布しますが、結局以仁王はこの後歴史上には現れず、日本の正史では平家軍に討たれた日の5月26日が以仁王の命日となってしまいました。
私は、以仁王は、平等院から平家軍の囲いを掻い潜っての脱出に成功し、源頼政から指示された越後国小国領への逃亡の旅に出たと主張しています。
光明山大鳥居の前で流れ矢に当たり討ち死にしたのは、“本物の以仁王ではなく、身代わりの以仁王であった”という訳です。
ところで、“以仁王と頼政が反平氏を唱え挙兵の意思を固めた動機は?” というと諸説あるようです。
ネットで検索すると
① 以仁王が皇位に就きたかったため、武士である源頼政を誘ったとする以仁王主体説。
② 「平家物語」にあるように、頼政の嫡男仲綱の愛馬 “木の下(このした)” をめぐる平宗盛との軋轢が直接の動機で、この屈辱と恥辱が、頼政・仲綱父子に謀反を決意させ以仁王を誘ったとする源氏頼政父子主体説。
上記ふたつの説が圧倒的に多いようです。
その他として、以仁王の父親である後白河法皇と、平家平清盛との皇位継承を巡る主導権争いが原因であるという説も見受けられます。
「尾瀬三郎の謎を解く」では、「以仁王の乱」は、二代皇后多子、二条天皇、待宵小侍従、以仁王、頼政等による、以仁王の皇位継承権を巡っての事件と表現しました。
「尾瀬三郎物語の謎を解く」をまとめ終わって振り返ってみると、以仁王等の「皇位継承権」を巡る事件だとする当初の考えに、何となく違和感を感じるようになりました。
もしかしたら、以仁王は、自らが天皇の位に就くことを望んではいなかったのではないか?
更に、頼政も以仁王を天皇にしたいとは思っていなかったのではないか?と思えてきたのです。
そのような考えに至った理由はふたつあります。
南会津叶津から越後国下田吉ヶ平へ抜ける八十里越えの途中に、以仁王が建てたとするお墓がありますが、墓の名が何故か頼政ではなく頼政の嫡男仲綱(伊豆守源仲綱公墓)となっているのです。
また、頼政が平等院で自刃する時に詠まれたとされる辞世の句の内容が、いかにも頼政らしくないこと。
この辞世の句が頼政らしくないことについては多くの専門家が指摘しています。
頼政は、平氏政権の下で、源氏としては最高位である従三位にまで昇り詰めました。
その後、治承3年(1179年)11月には、頼政は出家して家督を嫡男の仲綱に譲ります。
この時、頼政は74歳という老齢に達しています。
頼政の辞世の句 “埋木の花咲く事もなかりしに 身のなる果はあはれなりけり” の “埋木の花咲く事もなかりしに” については、「最高位にまで昇り詰めた従三位の頼政には当てはまらないのではないか」、ということから、「頼政自身の作ではない」という説も確かに説得力が有ります。
しかし、私はこの句は、あくまでも頼政が詠んだとして考えることにします。
ただし、頼政自身の境遇を詠んだものではなく、頼政が自分の息子達、特に、嫡男仲綱のことを悔やんで“埋木の花咲く事もなかりしに 身のなる果はあはれなりけり” と詠んだのではないかと推測するのです。
そして、この仲綱こそ、以仁王に謀反をけし掛けた張本人ではなかったか、という訳です。
「令旨」を発した治承4年には、既に頼政家の家督は嫡男仲綱に移っていました。
家長となった仲綱が、この世から完全に身を引いた父親頼政に頼み込んで、以仁王に「令旨」を書かせたのではなかろうかと考えるのです。
出家した頼政にしてみれば、家督を仲綱に譲った以上、家長である仲綱の依頼に従わざるを得なかったのではないだろうかと考えたのです。
何よりの証拠は、以仁王の発した「令旨」の署名が、依頼者の頼政ではなく嫡男の「先伊豆守源仲綱」となっています。
頼政家の主導権は仲綱に移った。
このように考えることで、越後国の山中にある仲綱の墓と頼政の辞世の句の違和感が無理なく説明可能となります。
頼政は息子仲綱から以仁王の説得を頼まれただけ。
頼政の詠んだ「埋木の花咲く事もなかりしに」は正に「仲綱の言うことに従って、こんな馬鹿な事件を起こさなければ、仲綱の未来は大きく開けていたはずなのに・・・・」と悔やんで詠んだのではないかと思えるのです。
だからこそ、以仁王は “今回の事件の首謀者が仲綱であり、彼の誘いに乗って「令旨」を書いてしまったものの、仲綱は宇治平等院の戦いで戦死し、自分だけはこうして逃亡して生き続けている” から、越後吉ヶ平集落の地で、頼政の墓ではなく、仲綱の墓を建て仲綱を供養したのではないかと推測するのです。
さて、以仁王一行は、平等院から宇治川を舟で下って脱出し大阪湾から太平洋に出ますが、頼政から指示された目的地の越後国小国領に直行することなく、駿河国阿倍川河畔の八条院領に立ち寄りました。
立ち寄った目的は、今後の越後までの逃亡資金の調達のためであると「尾瀬三郎の謎を解く」の中で説明しました。
では、何故、以仁王の逃亡資金の調達先が駿河国の八条院領なのでしょうか?
駿河国の八条院領が何故以仁王のために逃亡資金を出すのでしょうか?
「尾瀬三郎の謎を解く」では八条院領のことには殆んど触れていませんでした。
以仁王の「令旨」を東国に運んだのは源行家という人物ですが、彼は東国に「令旨」を運ぶ直前に、八条院から “八条院蔵人” に任命されています。
ここにも八条院が登場します。
駿河国の八条院領の持ち主は八条院暲子【あき子】という人物です。
八条院暲子は親の鳥羽法皇得子夫妻が寵愛した娘で、鳥羽法皇夫妻の全国にある八条院領の全ての財産を受け継ぎました。
以仁王はこの八条院暲子の “猶子” となっているのです。
だからこそ、以仁王の逃亡資金の調達先が逃亡経路途中の駿河国の八条院領だったのです。
(※1)猶子(ゆうし)とは、明治以前において存在した他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶこと。
ただし、養子とは違い、契約関係によって成立し、子供の姓は変わらないなど親子関係の結びつきが弱く擬制的な側面(その子の後見人となる)が強い。
現代の観点では、「特に目をかけている(被)後見人」と考えると理解しやすい。
以仁王が討たれ、以仁王の乱が終了した時、京の都の八条院暲子の館(やかた)内には、以仁王の息子と娘が養育されていました。
「平家物語」では「若宮と姫君」と表現されています。
この以仁王の息子と娘も、八条院暲子の “猶子” となっています。
以仁王を父親とするふたりの若宮と姫君の実母は、「伊予守高階盛章の娘」と伝わっています。
実名は不明ですが、父親の名前は伊予守高階盛章です。
この「伊予守高階盛章の娘」は八条院に仕える女房三位局でした。
「平家物語」で語られる、“討たれた以仁王の首実検に立ち会わされた女房” とはこの女性です。
以仁王には、このふたりの子供の上に長男がひとりいます。
この長男が “北陸宮【ほくろくのみや】” です。
以仁王の乱が発生した直後、長男の北陸宮は南都奈良から越中国宮崎に避難しました。
そして、数ヵ月後木曾義仲に担がれて上洛に成功するのですが、結局、 “北陸宮” は天皇の位には就けませんでした。
この北陸宮については、ネットでいくら調べても母親の実名がわかりませんでした。
「八条院に仕えていた女房三位局」ということは確かなようですが、どこの何者なのかが現在も明らかになっていません。
しかし、「八条院に仕えていた女房三位局」であることから、“北陸宮” もまた八条院が関連するのです。
八条院暲子は以仁王の長男である “北陸宮” は “猶子” としていません。
このことは何を意味するのでしょうか?
八条院暲子は以仁王本人を “猶子” にし、更に「伊予守高階盛章の娘」が産んだ以仁王のふたりの子供を “猶子” にしました。
しかし、八条院暲子は長男の “北陸宮” や、他の以仁王の子供達を猶子としていません。
何故でしょう?
八条院暲子は両親である鳥羽法皇夫妻から莫大な遺産、所領地を相続しました。
でも、八条院暲子は生涯独身でしたから、この遺産を相続する対象者がおりません。
八条院暲子が以仁王の子供を “猶子” とした理由は、莫大な父母からの遺産を確かな人物に相続させるためだったのではないかと思われるのです。
そのための “猶子” ではないかと思うのです。
両親から譲り受けた遺産を次の世代に譲るには、暲子自身が100%信頼に値すると認めた人物でなければなりません。
しかし、遺産相続の対象となる若宮と姫君はまだ幼い子供です。
子供が将来どのように成長するかは未知数なのです。
だからこそ、先ず親にその資質の高さを求めたのではないかと思うのです。
男親は以仁王で問題は何も有りません。
資質も十分、それに鳥羽法皇の血を受け継いでいます。
問題は母親なのです。
八条院暲子は八条院に仕えている女房の中から最も資質に優れた人物を選定しました。
その人物が「伊予守高階盛章の娘」だったのです。
そして、「伊予守高階盛章の娘」から生まれた子供だけを “猶子” としたのでした。
以仁王は子供の頃に暲子の父である鳥羽法王のひとつ下の弟の天台座主最雲法親王の弟子としてお寺に預けられました。
弟子としてお寺に預けられたということは、将来、皇位に就く可能性が全くないということです。
事実、親王宣下は一生有りませんでした。
以仁王は生まれた時から、“将来出家し子孫を残さない” ことが運命として定まっていたのです。
暲子はそんな以仁王を “猶子” としました。
以仁王の優れた資質、教養の高さを認めたのです。
しかし、以仁王を “猶子” としたからといって、暲子の持つ莫大な財産を以仁王本人に譲ることはできません。
なぜなら、以仁王は出家する身ですから一代限りで終わるのです。
後が続かないのです。
つまり、以仁王は暲子の遺産相続人として適任者ではないのです。
だから、以仁王の血を受け継いだ彼の子供が必要だったのです。
そのためには、子孫を残すことの許されない出家という身から以仁王を世俗に転身(還俗)させることがどうしても必要になったのです。
そのために、師天台座主最雲法親王が亡くなった時を機に以仁王(12歳)を還俗させ、15歳になった時、密かに「元服式」が決行されたのです。
以仁王を一代で終わらせることのないための還俗と元服式なのです。
「元服式」には、立会人が必要です。
暲子は、以仁王の元服式を多子(まさるこ)に依頼しました。
そして、多子の屋敷内で以仁王の元服式が内密に決行されたのです。
この以仁王の元服が、もしも清盛に知れることになれば、皇位に絡む謀反と取られかねません。
清盛は、ようやく皇室に平家の血を混入させることに成功したばかりだったのです。
だから、元服式は内密に、こっそりと多子の屋敷内で行われました。
元服式を終えた後は、誰に以仁王の子供を産ませるかが重要な課題となります。
八条院の屋敷には大勢の公卿出身の女房が仕えていました。
その中でも、特別に選ばれた女性、勿論暲子が選定者ですが、暲子の目に叶ったのが「伊予守高階盛章の娘」だったという訳です。
八条院に仕えていた北陸宮を産んだ女房は、残念ながら八条院暲子の目には叶いませんでした。
暲子の選定基準は飽くまでも父母からの財産を受け渡すに相応しい子供を産めるに値する女房かどうかの一点なのです。
八条院暲子という人物は、父母からの莫大な財産を引き継いだ時を境にして、彼女の人生・運命は決定づけられてしまいました。
莫大な財産を携えて、他家に嫁に行くわけにいかなくなりました。
そのため、一生独身を通すことになったのです。
しかし、独身のままだと遺産を継ぐ子供がいないので、父母からの財産を引き継いでくれる人物を探さなければなりません。
誰でもいいという訳にはいきません。
未来永劫にわたって父母からの財産の管理を行えるだけの優れた資質を持った人物でなければならなかったのです。
以仁王のふたりの子供たちは暲子の “最終の” 遺産相続人だったのです。
“最終の” と言った意味は、暲子にはこれまでに遺産相続人と決めていた人物が複数いたのです。
しかし、その相続人は暲子よりも早く亡くなり最後の最後に以仁王の子供だけが残ったという訳なのです。
最初の遺産相続人の候補は、近衛天皇の子でした。
近衛天皇は暲子の2歳下の実弟です。
近衛天皇の妻が以仁王の元服式に立ち会った、多子【まさるこ】です。
暲子はこの実弟の妻多子の資質の高さを認めました。
近衛天皇の子供は鳥羽法皇夫妻の直系ですから、多子との間に生まれる子供は遺産相続人としては最適人者でした。
しかし、暲子の思うようにはいきませんでした。
近衛天皇は若くして亡くなり、多子に子は出来なかったのです。
次の遺産相続人候補は、姪の二条天皇の子供です。
二条天皇の父親は後白河法皇です。
後白河法皇は暲子の異母弟です。
二条天皇の子供は遺産相続人としては実弟の近衛天皇に次いで次善の適任者なのです。
そして、暲子は、実弟近衛天皇の妻であった多子【まさるこ】を二条天皇の中宮として選んだのです。
日本の歴史上は、二条天皇が多子を望んだとしています。
理由は、多子の美貌と優れた資質に惚れこんでといわれています。
でも、先代の天皇のお妃を自分の中宮として迎えた前例は有りません。
二条天皇の父親である後白河法皇も大反対しますが、二条天皇は「私は天皇である、親の言うことを聞く必要はない(親や法皇より天皇の方が上なんだ)」というような理屈をこねて前例のないことを強弁に実行してしまうのです。
暲子と二条天皇の関係ですが、暲子は二条天皇の准母となっていますから、二条天皇が先代の天皇の妻多子を中宮として自ら選んだということの裏に、准母暲子の意思が強く働いたと見ることは極々自然な解釈でしょう。
二条天皇には、何人かの子供がいます。
しかし、暲子にしてみれば、二条天皇が誰の子供を産むかは、どうでもよいのです。
ただただ、二条天皇の妻多子が産んだ子供だけが暲子の遺産相続人なのです。
しかし、二条天皇は体が弱く、若くして崩御してしまいます。
二条天皇は崩御する直前に、男子の子供の中から天皇としての後継者を選びました。
それが六条天皇でした。
六条天皇は多子の子供では有りません。
従って、暲子にとっては、六条天皇という皇位継承者に遺産相続をする気は更々有りません。
多子が産む子供だけが暲子の財産の相続人なのですから。
しかし、暲子の大きな期待に反して、多子にはまたしても子供ができなかったのです。
このように、暲子を取り巻く周りの遺産相続人としての候補者が次々と消え、最後に切り札として残ったのが以仁王の子供となったのです。
これまで、八条院暲子を中心に、二代皇后多子、近衛天皇、二条天皇、以仁王の関係を述べてきました。
八条院暲子が多子に命じた以仁王元服の目的は決して皇位継承のためではないこと。
八条院暲子は自らの遺産を近衛天皇と多子の子に、しかし、多子に子供が産まれなかった為に、次は二条天皇と多子の子供に、またしても子供が出来なかった為に、次に以仁王の子供にと順次変わっていったのです。
さて、暲子は以仁王の相手に「伊予守高階盛章の娘」を選びました。
暲子が以仁王の相手にみたび多子を選定しなかった理由は単純明解です。
それは “多子が子供を産む適齢期を既に過ぎていたから” だけです。
多子もまた暲子には全幅の信頼を寄せていました。
だから、暲子に命じられるまま、以仁王の元服式を多子の屋敷で行ったのです。
暲子は近衛天皇と多子の夫婦を好ましいカップルとして見ていたことは疑いありません。
近衛天皇は暲子の実弟ですが、多子が近衛天皇の許に入内することに関して、関与していたかどうかは不明です。
恐らく、入内した後に初めて多子という人物(当時12歳)に出会ったのではないかと思われます。
当時内大臣であった藤原頼長は、康治元年(1142)8月9日、当時3歳の養女(後の多子)を将来天皇の女御とするよう鳥羽法皇に請うています。
頼長はこの養女を入内させようとして、藤原道長女・上東門院彰子の一条天皇入内の先例を『御堂関白記』により研究していたといいます。
ところで、多子という名前ですが、「女は子が多い(多子)のがよい。況や中国の字書『説文』に、「多」の字は「夕」(ゆう)の字を重ね、夜を専らにするの意味である。
「多子」の名は夜を専らにして、皇子の御誕生を待つのに最吉の名である。」ということから名付けられたそうです。
また、多子の字の読みですが、『婚記』に記載された『大外記中原師安請文』によれば、「多は万佐留(マサル)と云ふ訓に候か。いよいよ神妙に覚え候。」とあり、「多子」は「マサルコ」と読みます。
久安六年(1150)1月10日、従三位藤原多子は近衞天皇に入内します。
近衛天皇は御年12才、女御多子は御年11才です。
まだ幼い天皇と女御は、仲の良い兄妹のようで、天皇が馬となり、女御多子がこれに騎乗されて遊んでいたと伝わっています。
暲子は1137年生まれですから、近衛天皇(1139年生)とは2歳年上です。
この3人が兄妹のような親しい関係だったことは容易に想像できます。
近衛天皇在位中に、有る出来事が発生します。
近衛天皇は、毎夜、得体の知れないものにより、うなされ苦しみだすようになりました。
真相は、夜中に鳴く「とらつぐみ」という鳥の声に、恐怖を抱いたのだと思いますが、当時の医療(せいぜい薬草を飲ませるか、僧侶の祈祷)技術では治るはずが有りません。
そこで呼ばれたのが源頼政です。
「近衛天皇の許に毎夜やってくる妖怪を退治せよ」という訳です。
頼政は配下の猪早太とふたりで御所に妖怪退治にやってきます。
真夜中の2時頃。
真っ暗闇の庭の木の上あたりから妖怪の鳴き声が響き渡ります。
ユーチューブで「とらつぐみ」の声を聞きましたが、確かに真夜中にあの声で鳴かれると不気味です。
御所の庭には大きな木が茂っています。
頼政は、妖怪が鳴いたと思われる木の茂みに向かって、「南無八幡大菩薩」と言いながら矢を放ちます。
すると、「ギャー」と・・・・聞こえたかどうかは分かりませんが、木の上から何かが「どさり」と落ちてきます。
控えていた配下の猪早太が素早く駆け寄り、抜いた刀でその落ちてきた妖怪をめった切りにします。
「妖怪を退治したぞ」との早太の声に、居合わせた者達が、その場所に集まり、妖怪の正体を見ます。
妖怪の体は、首、胴体、足、尻尾が切り離され、血まみれとなってころがっています。
頭は猿、胴体は狸、足は虎、尻尾は蛇でした。
頼政は、最初から猿の頭、狸の胴体、虎の4本足、大きな蛇と、血の滴る獣の内臓を用意しました。
それを予め木の上に上げておきます。
影のアシスタントがもう一人いました。
アシスタントは木の上から「とらつむぎ」の声を真似てひと鳴きします。
マジックショーの開始です。
頼政がその声を合図に矢を射るのと同時に、木の上のアシスタントは「ギャー」という声を発し、木の上から予め用意した物を下に投げ落とします。
早太は、直ぐに駆け寄り、獣の内臓をめった切りにします。
真っ暗闇ですから、仕掛けを見破られる心配は有りません。
単純な子供だましのトリックです。
暲子はこれがトリックであることを事前に頼政から聞いて知っていました。
もしかしたら、暲子がこのマジックショーを考え付いたのかも知れません。
後に多子も暲子からこのトリックを聞かされます。
勿論、幼少の近衛天皇には絶対に秘密です。
何も知らない近衛天皇はこの夜からは、ぐっすりと眠れるようになりました。
世間は、この妖怪を「鵺(ぬえ)」と名付けました。
というのが、有名な「頼政の鵺退治」の顛末でした。
このような馬鹿げたことを真面目に実行できるのは、当時は武士でありながら武力を全く使わない頼政以外にいなかったのだろうと思われます。
暲子はこの鵺退治を機会に頼政を信頼するようになったのではないかと思っています。
「頼政による鵺退治」は、二条天皇在位中にも行われました。
二条天皇もまた、妖怪に悩まされることになったのです。
妖怪退治にまたしても頼政が選ばれました。
頼政に鵺退治を依頼したのは、暲子と多子ではないかと思っています。
暲子は二条天皇の准母です。
多子は二条天皇の皇后でもあり、近衛天皇の皇后でもありました。
もうひとりの暲子の重要な関係者として「待宵小侍従」という女性に触れない訳にはいきません。
源頼政とラブラブカップルになったという女性です。
小侍従は夫と死に別れてから、頼政は60歳になってからという異色のカップル誕生です。
この関係は、ふたりの間で詠み交わす恋の歌がいくつも残されており、多くの歴史家たちが史実として認めています。
ふたりの間で読み交わされる歌からはなるほどとも思いますが、年齢差や、ふたりの性格などを考えるとまともに恋人同士になったとは信じられないのですが・・・。
例えば「恋愛」というテーマを決めて、小侍従が頼政に和歌の手ほどきをしたくらいではないかと思われますがどうでしょうか?
ところで、小侍従の本名は伝わっていません。
宮仕えの呼び名で『小侍従』と呼ばれました。
小侍従は二条天皇・太皇太后多子・高倉天皇の順にお仕えしました。
多子から「男の訪れを待つ宵と、翌朝男の帰る後朝(きぬぎぬ)の別れと何れが哀れが勝るか」との問いに、即座に「待つ宵の更け行く鐘の声聞けば帰る朝(あした)の鳥はものかは」と応えたことにより、小侍従に待宵を付け「待宵の小侍従」と呼ばれるようになったと言われています。
小侍従は秀逸な和歌を多く残した平安末期を代表する高名な女流歌人なのです。
二勅撰集入集歌は『千載和歌集』以後五十四首にも及んでいます。
それに、歌合せも自ら主宰し、その歌合せには頼政、嫡男仲綱も招かれています。
また、小侍従は和琴や笛等の名手でもありました。
小侍従が二条天皇や多子更に高倉天皇にお仕えするということは、どのような意味を持つのでしょうか。
秀逸な和歌を詠み、名人に匹敵する和琴等をたしなむということは、その技芸を以て教授するために宮仕えをしたと考えられます。
暲子は、相続人として選定した人物達の優れた家庭教師として小侍従を選定したのではないでしょうか。
その選定基準ですが、先ずは宮中人としての正しい礼儀作法でしょう。
そして、文字文章が正しく読める、書けること。
普通の読み書きではありません。
極致を極めた和歌の領域にまで達するほどの読み書きです。
そして音楽、和琴・横笛・舞踊等。
これも全て名人級が求められます。
但し、現代の基準である、炊事(料理)洗濯、子育て等は暲子の基準からは除外されます。
この時代は、子育ては乳母に託します。
炊事洗濯のような仕事は、使用人の役割です。
暲子の相続人となる母親の選定基準は、優秀な資質を幼少の頃から身につけること。
小侍従はこの相続人の資質を高めるための教師として選ばれました。
以仁王には和琴を伝授したという記録が残っています。
治承4年に以仁王は「令旨」を東国の源氏に発しました。
しかし、このことは暲子にとっては思ってもいない出来事でした。
暲子、多子、小侍従からは、以仁王の取った行動(令旨は平氏政権に対する明らかな謀反行動)は全く理解されないでしょう。
しかし、暲子等の知らぬところで、世の中が少しずつ変化していったのです。
それは、平清盛、源頼政間の争いを封じた時代から、その息子達が成人し、息子達が引き起こす僅かな争いの種が次々と積み重ねられお互いの怨念が次第に抜き差しならないほど大きく成長していったのです。
その代表的な逸話が、「木の下」事件なのです。
また、以仁王に「あなたの人相は、天皇になる顔をしている」などとそそのかす輩も出てきます。
素直な以仁王(当然、邪悪な世界は世俗を離れてお寺で静かに暮らしていた以仁王は無縁でした)は、簡単にその気になってしまいました。
以仁王が乱を起こしたことで、最も落胆したのは暲子ではないでしょうか。
以仁王を秘密裏に還俗・元服させたのは暲子の指示です。
目的は、財産の相続のためです。
平氏政権打倒だなんて、暲子は一切考えていません。
しかし、周りは、そうは捉えてはいませんでした。
歴代天皇家を築いてきた閑院流、六条流、それに、摂関家、更に源氏など、清盛政権に対する不満が徐々に大きくなってきていたのです。
以仁王もその時代の潮流の中にいつしか取り込まれていったのです。
そんな、状況の中で以仁王の「令旨」が発せられたのです。
「令旨」事件を知らされ、清盛の怒りを知らされ、以仁王が三井寺に逃げ込んだことを知らされ、平等院の戦いで討死したことを知らされた時、暲子はこう思ったはずです。
「何故私のところに逃げ込んでくれなかったのか。私のところに逃げ込んでくれれば、土佐に流されることはあっても、命までは失うことが無かっただろうに。頼政親子の指示で、以仁王が三井寺に逃げ込んだことがそもそも大きな間違いだった」と。
以仁王の起こした「令旨」事件によって、せっかく猶子にした最後の最後の遺産相続者である若宮と姫君の命が今、危なくなったのです。
間もなく、暲子の屋敷に、清盛からの命を受けた平宗盛が、「ふたりの子供を差し出せ」と言ってきました。
暲子はふたりの若宮と姫君を必死に守ろうとしますが、清盛からの再度の強い要請を受け、遂に若宮を引き渡さざるを得なくなりました。
清盛の許に連れ出された若宮は、平頼盛の計らいにより、殺されることなく出家(後に安井の宮道尊として名僧となる)することで決着が着きますが、この事は暲子にとっては大きな痛手でした。
若宮が出家したという意味は、世継ぎを産む可能性がないという意味ですから、若宮は、暲子の遺産相続人リストからは完全に抹殺せざるを得なくなったのです。
しかし、幸運なことに姫君ひとりは何とかして手元に残りました。
でも、この姫君に全ての遺産を相続させることは、再び自分と同じ運命をたどらせることになりかねません。
即ち、姫君は一生独身を通すことと、自分と同じように次の遺産相続人選定に心を悩ませることになるのです。
「出家した若宮の代わりがほしい」
暲子は若宮の代わりを求めました。
若宮の父親である以仁王はもう都にはいません。
それに、以仁王は死んだことになっています。
以仁王が駿河を出発し、越後小国に向かったことは駿河国八条院領から報告を受けていますが、その後の以仁王の消息は入ってきていません。
でも、暲子から見ると別の意味で以仁王は謀反人です。
暲子の最も大きな期待を裏切ったのです。
若宮を暲子から奪った原因を作ったのは以仁王本人なのです。
「若宮の代わりが欲しい。」
「姫君の弟が欲しい。」
以仁王の乱が終わり、京から以仁王が消えた後、このように暲子が考え始めました。
暲子の遺産を相続する子を産む母親は既に決まっています。
その該当者は一人しかいません。
その女性は、以仁王の子、若宮、姫君を産んだ「伊予守高階盛章の娘」です。
母親は決まりました。
以仁王の代わりの父親を誰にするか?
暲子の目に叶い、かつ、父鳥羽法皇の血を受け継ぐものは、今やこの世にひとりもいなくなってしまいました。
そうとなれば、八条院に出入りする、家柄のしっかりとした、身分の高い、教養の優れた者の中から選人するしかないでしょう。
そうして、暲子は摂関家の三男藤原兼実(九条兼実)を父親として選任しました。
暲子は、八条院内で伊予守高階盛章の娘を兼実に引き合わせたのです。
藤原兼実というと、有名な日記「玉葉」の作者です。
三男兼実は兄ふたりと違い清盛政権とは一定の距離を置いていました。
兄の基実、次兄の基房は関白を歴任しています。
この摂関家において歴史に残る重大な事件が発生しました。
平清盛は天皇家に平家の武士の血を混入させるという野望の他、摂関家の所領する領地財産にも触手を伸ばし自分の物としたのです。
清盛は1164年、清盛の三女盛子を摂関家長男藤原基実に嫁がせました。
ところが基実は盛子と婚姻後わずか2年(1166)で死んでしまいます。
その息子の基通(盛子の子ではない)はまだ幼く(7歳)、摂政は弟の基房が継ぎますが、そのとき、清盛は摂関家領のうち、摂政関白の地位に属する「殿下渡領」[でんかのわたりりょう]は基房に継がせるが、残りの氏長者領などの大部分の家領や邸宅は盛子が預かるということにし、事実上摂関家の家領などは平家が支配することにしたのです。
このことで、弟基房は清盛に深い怨念を持つのですが、兄嫁の盛子が生きている間は何もできませんでした。
13年後(1179)、盛子が亡くなりました。
今度は、盛子の死を機会に、後白河法皇が行動を起こしました。
後白河法皇は基房をまるめ込んで、清盛から摂関家領を奪い返そうとしたのです。
このほか、後白河法皇は越前国の平家知行の停止を命じました。
また、基房の子師家を摂政につけるという行動を起こしました。
しかし、このことが逆に清盛に激しい抵抗の機会を与えてしまったのです。
いわゆる、これが1179年に起きた「清盛クーデター」なのです。
後白河法皇が基房の子師家を中納言に任じた10月9日から一月後、福原にいた清盛が遂に実行動を起こしました。
14日に、清盛は騎馬数千騎で京の都に乗り込んだのです。
翌15日には、清盛は、自分の身内である中宮(徳子)と東宮(言仁=安徳)を「福原へつれて帰るぞ」という恫喝に出ました。
恫喝の対象は後白河法皇と天皇(高倉)です。
清盛は息子・重衡を使者にして朝廷につぎのように通告します。
近日愚僧は偏に以て棄て置かれ、朝政の体をみるに安堵すべからず。世間から罪科を蒙っての後、悔いても益なかるべし。身に暇を賜って、辺地に隠居するにしくはなし。よって、両宮を具し奉って、行啓を催し儲けるところなり(『玉葉』治承3年11月15日)。
「こんなことをするなら、安徳の朝廷を別に打ち立てるぞ」と脅したのです。
この清盛による強烈な揺さぶりに屈して、後白河法皇は全面降伏してしまいました。
これが、清盛の無血クーデターなのです。
後白河法皇の挑発とそれに続く清盛のクーデターの直接の原因となった摂関家に藤原兼実という男がいました。
兼実は、直接的には清盛と摂関家の紛争には巻き込まれてはいません。
兼実は、八条院に出入りしていました。
そして、清盛とは、一定の距離を置いていました。
兼実の著わした日記「玉葉」は、当時の世相、しきたり、兼実の公私にわたる記録でありその価値はWikipediaによれば「その表現の明快熟達さ、さらに記事の随所にある人物評や世相の動向を巧みにとらえて活写している事にある」と評しています。
また、当時の公家の日記は、宮中行事を遂行するための所作などを後世に伝える目的も帯びており、『玉葉』も例外ではなく、宮中における儀式の次第が詳細に記されています。
暲子は、この摂関家の3男藤原兼実のもつ優れた資質を認めました。
そして、この兼実のところに、以仁王の元妻、伊予守高階盛章の娘を嫁がせたのです。
当時は通い婚でしたので、兼実に、以仁王の元妻、伊予守高階盛章の娘のところに通うよう仕向けたという表現が適切かもしれません。
そしてこのふたりの間に生まれたのが良輔です。
当然、暲子はこの良輔を“猶子”としました。
この手法、二代皇后多子のケースに似ていませんか?
多子の場合も伊予守高階盛章の娘の場合も、暲子の両親からの遺産相続人を造りだすための手法と見れば何の違和感も有りませんね。
暲子が所領する八条院領は全国に散らばっています。
そこから、莫大な年貢が京の都の暲子の許に集められます。
さすがに、清盛はこの八条院領にまでは、その悪の触手を伸ばすことはできませんでした。
ところで、京の都の八条院はどのような役割を担っていたのでしょうか。
これまで述べてきたように、八条院には多くの優秀な人材が集まってきたようです。
以仁王の乱が終わり、暲子の元にふたりの子供を引き渡せと言ってきた人物は、平家の平頼盛でした。
八条院には平家、源氏の区別なく優秀な人物が集まる組織作りがあったのではないかと思っています。
例えば、現代の総合大学のような組織です。
文学、歴史、地理、音楽(楽器と唄)、書道、道徳にいたる全てのカリキュラムを備えた総合大学のようなものを想像してください。
更に、全国の八条院領からはいろいろな情報が集まってきます。
現代の国立図書館や資料館のようなものと想像しています。
八条院に仕えていた兼実は世の中の出来事を日記という手法で残しました。
宮中のしきたりや世相など八条院に集まる情報量は膨大です。
情報源は勿論全国の八条院領です。
八条院に出入りする有る人物は奢り高ぶる平家について「平家物語」という歴史書を編集しだしました。
この「平家物語」という歴史書は忠実に史実に基づいて琵琶法師に語らせるという、これまでに例の見ない歴史物語です。
平家物語の作者は、まるで神か仏が天井から地上を全て見下ろすように歴史を再現してゆきました。
以仁王が京から三井寺に逃げる時、女装しただとか、溝をひょいと飛び越えたなど、当人にしか絶対に知り得ないことを法師は語ります。
六条大夫宗信が以仁王の首なし死体が運ばれる様子を、飛び込んだ沼の中から見ていたなんていうのも宗信しか知り得ない情報です。
頼政の切腹した様子や、その時の辞世の句はどのような経路でこの作者の耳に入ったのでしょうか?
全て、全国の八条院領から、そして、当人からの直接聞いた情報なのです。
これら全て八条院に出入りすることによってのみ得られる生の情報なのです。
ところで「平家物語」の作者とは誰でしょうか?
吉田兼好の著わした「徒然草」の中に「平家物語」の作者名は信濃前司行長であると載っています。
ネットで信濃前司行長を検索すると次のように説明されていました。
『徒然草』に『平家物語』の作者とみえる。漢詩文の達者であったが,朝廷の論議の番に召された際「七徳の舞」のふたつを忘れ,「五徳の冠者」と仇名されたのを憂えて出家,それを哀れに思った慈円に扶持され,やがて『平家物語』を作り琵琶法師に語らせたという。その実在は疑われていたが,平安末期の貴族藤原行隆の子としてみえる行長が有力。行長は源平の争乱期に八条院に仕えて蔵人となり,摂政九条兼実が八条院の女房三位局との間にもうけた良輔に仕えて下野守となった。漢詩文をよくして元久2(1205)年の「元久の詩歌合」にも漢詩を出している。
良輔が亡くなって以後の消息は不明だが,同じ年に朝廷で番の論議があったことが知られている。<参考文献>五味文彦『平家物語 史と説話』
信濃前司行長は漢詩文の達人であったということ。
慈円に扶持されたこと。
慈円というのは、摂関家の4男であり、兼実の弟です。
慈円は「親鸞聖人」の師でも有ります。
信濃前司行長は源平の争乱期に八条院に仕えて蔵人となったこと。
更に、兼実の子であり、暲子の猶子である良輔に仕えて下野守となったこと。
何と、平家物語の作者信濃前司行長も、八条院に仕え、暲子からの厚い庇護をうけていたのでした。
「平家物語」のスポンサーは暲子でした。
信濃前司行長は八条院の庇護のもと、生活に何の不自由もなく、全国の八条院領からの生の情報を得て、「平家物語」の編集に当たることができたのです。
平家物語の特徴は
後白河法皇を主語とする文が存在しないこと。
同時に頼政を主語とする文もまた存在しないことだそうです。
当然です。
「平家物語」は奢る平家が滅亡の道を辿るという物語であり、平家が主人公なのですから。
信濃前司行長が編集する「平家物語」には、スポンサーである八条院暲子が主体的に登場することも絶対に有りません。
時の平清盛の滅亡への先駆けとなった「令旨」は、暲子の猶子以仁王が引き起こしたのです。
平家物語には、以仁王が暲子の猶子であることや、その子供達もまた猶子としたことなどの史実は一切述べられていません。
八条院暲子の立場が悪くなるような場面は一切ないのです。
「若宮出家」の章で暲子が八条女院として登場しますが、これは史実であり省くことはできませんでした。
でも、以仁王の子供達は暲子の屋敷にいたとしか述べられていません。
以仁王の首実検に立ち会わされた女房の名前(伊予守高階盛章の娘)も伏せられました。
彼女は八条院に仕えていたからです。
更に彼女は、以仁王の子、若宮と姫君の実の母親でもあります。
以仁王の「令旨」を運んだ源行家が八条院蔵人であるということも伏せられました。
「令旨」を運ぶ直前に、八条院蔵人に任命されたからです。
何よりも「平家物語」の作者信濃前司行長という名もまた伏せられました。
信濃前司行長は八条院に仕え、暲子の猶子の良輔に仕えて下野守となっていたことで自らの名前も消しました。
吉田兼好が「徒然草」に信濃前司行長という名を出さなければ、永久に作者は不明だったでしょう。
八条院には京の都のあらゆる技芸の達人が集まってきています。
その中に琵琶の名人も当然集まってきています。
琵琶を弾くだけの名人では、平家物語を語ることはできません。
平家物語の全文を全て記憶し、一言一句変えることなく語り続けられる頭脳と技量と体力が必要でした。
平家物語は文字で残しませんでした。
後世に、正しく歴史を残す方法として、琵琶法師による語りという手法が選ばれました。
「平家物語」というのは、平家の悪行に対する告発物語なのです。
文字で残す手法は、横暴な平家から焼却されれば世に残りません。
また、火事による焼失の心配もあります。
人間の頭の中に真実の歴史を保存する。
当時としては、この方法が最も安全に後世まで事実を伝える唯一の手法だったのです。
現代に残っている、文字としての平家物語は、琵琶法師が語り継がれた物を、後世になって文字化したものです。
以仁王が生き延び駿河国八条院領に立ち寄り、そこからさらに奥に向かったことについては、駿河八条院領からの報告で暲子は知っています。
兼実や信濃前司行長もその情報を得ています。
そのうち、巷の噂にも以仁王の生存説が流れ始めました。
日記「玉葉」に兼実はこの噂のことも書きました。
噂があること自体が事実だからです。
暲子は駿河国八条院領からの生存情報に安堵したに違いありません。
しかし、王を都に戻すことにはなりませんでした。
今や、暲子にとって以仁王はこの世から消えた存在のままの方が都合が良かったのです。
それは以仁王の娘であり、あき子の猶子である姫君の命を何としても守りたかったからです。
生きて以仁王が京に戻ることになれば、姫君の命が危なくなるからです。
駿河国にいる以仁王には、頼政の提案に従って、越後小国領へ行くことをそれとなく伝えました。
そして、十分な逃亡資金を以仁王に与えました。
条件は、「決して、都に戻って来ないこと」
以仁王は、この提案を受け入れました。
自ら引き起こした、愚かな事件を深く反省したからです。
義仲が上洛を果たし、頼朝が京に入った後も、以仁王が表舞台に現れなかった理由のひとつがここにあるのです。
「平家物語」では、以仁王が京から脱出に成功したことは伏せられました。
脱出に成功したことを知るのは、八条院の中にいるごく限られた者だけです。
平清盛軍からの公式発表は、「乱の首謀者以仁王は戦死した」です。
戦死したという結論自体もまた事実なのです。
信濃前司行長は、平家軍に討たれた偽者の以仁王が、平家軍の見解に沿って、本物であるという筋書きにしました。
しかし、行長が「平家物語」をまとめる本来の目的は、史実を正確に後世に残すことです。
そこで彼は、物語の中にそれとなく真実を隠しました。
注意深く平家物語を聞けば、京で討たれたのは実は偽者であることが分かるような仕掛けを物語のいろいろな所にしたためたのです。
しかし、あまりにも巧みであったため、このトリックは読み解かれないまま現代に至りました。
琵琶法師の語る「平家物語」を一度や二度聞いたからって、この行長の巧みな企みに誰も気付く人はいませんでした。
しかし、以仁王は会津から越後までの逃亡過程でそれぞれの村に証拠を多く残しています。
王が村々を歩けば、当然ながらその軌跡が村々に残ってしまうのです。
しかし、歴史学者たちは会津や越後の奥深い山の中の多くの集落に伝わる以仁王の言い伝えなど、見向きもされませんでした。
結果として、行長の思惑は大きく外れ、以仁王は平家からの公式発表通り、「30歳の若さで流れ矢に当たり討ち死にした」という日本の正史になり今日に至りました。
さて、八十里越を果たし、ようやく吉ヶ平に到着した時、以仁王は仲綱と自分を重ね合わせました。
愚かな自分と、父親頼政の期待を裏切ってしまったもうひとりの愚かな仲綱。
仲綱は頼政と共に宇治の平等院で戦死しました。
京から遠く離れた吉ヶ平の山中に、ひっそりと仲綱の墓が建てられました。
そのお墓は「伊豆守源仲綱公墓」として今に伝わっています。
吉ヶ平の仲綱の墓は明治の初め頃に、誰かが造り変えたもののようです。
吉ヶ平集落は、昭和45年に消滅しました。
今は、仲綱の墓のことも、以仁王のことも地元で語る人は誰もいません。
でも、明治の初め頃まではこの以仁王と仲綱の伝説は、明らかに村人の間に語り継がれてきたことはこの墓が証拠であり確かな事実なのです。
八条院暲子の遺産がどうなったかを追記します。
1196年、八条院暲子60歳の時、病気で重態になります。
その時、財産の大部分は三条姫宮に相続されました。
残りの財産はもう一人の猶子の良輔に相続されました。
しかし、八条院暲子は命を長らえ、逆に三条姫君が1204年に先に亡くなってしまったため、遺産は再び暲子に戻ってきました。
そこで、暲子は、後鳥羽天皇の昇子内親王を養女とします。
この昇子内親王に八条院領の大部分が相続されました。
(終わり)