新潟県魚沼市、旧湯之谷村の山奥、奥只見ダム湖畔銀山平の高台には、烏帽子(えぼし)を被り公家装束姿の若者像が立っています。
これが今回のお話の主人公で名は「尾瀬三郎房利」と伝えられています。
この尾瀬三郎房利という人は、『尾瀬ヶ原や尾瀬沼』を最初に発見した人だとも言われています。
像の傍には下記に示すような説明書きが書かれています。
これが、この土地に昔々から伝わる、この土地では知らぬものがいない『尾瀬三郎物語』なのです。
尾瀬三郎は、左大臣藤原経房【ふじわらのつねふさ】の次男で名を房利といい、二条天皇に若くして逝かれた皇妃をめぐって、平清盛と恋のさや当てを演じて、清盛の策謀により、越後へ流された。
数名の従者を連れて湯ノ谷の山に分け入った三郎が、やがて道が険しくなり、馬から下りて歩き始めたところが、現在の湯之谷村の折立【おりたて】で、あまりの難路に、三郎一行があたりの木々の枝を折々超えたのが、枝折峠(しおりとうげ)だという。
苦難の末に尾瀬にたどり着いた三郎は、燧ヶ岳【ひうちがたけ】山麓の岩窟を住処として、都への帰還を画策していたが志ならず尾瀬で果てた。
※現在は看板が新設され、文章が若干修正されています。
この『尾瀬三郎物語』のストーリーはこの土地の人々には、何の違和感も抱かせることもなく伝えられてきました。
それはこのストーリーが『昔々、本当に有った物語である』というよりも『本当に有ったかどうかは別として、古くからこの地に広く伝わっている言い伝えである』と素直に素朴に村人に受入れられてきたからではないでしょうか。
でも、この三郎の烏帽子【えぼし】を被った公家装束姿は奥深い越後の山奥には相応しくありませんし、そもそもこんな姿で、険しい枝折峠を越えたなんて、一般常識からは考えられません。
“本当は『尾瀬三郎』なんて単なる言い伝えに過ぎない『伝説』上の架空の人物なのだ” と誰かから主張されたらこの土地の人々は誰も否定できないでしょう。
さて、この尾瀬三郎物語には更に詳しい言い伝えが有りました。
“恋のさや当て” の原因となった出来事です。
今をさかのぼること八百余年、長寛年間(1163-65)。
当時貴族階級の権勢漸く衰え、保元、平治の乱を経て、これに取って代る田舎武士平氏の台頭急となる。
その数多い頭領中、一世の智将平清盛の勢威は正に昇天の如く、藤原氏や院政側を抑圧し、為に一方に大なる反感を持たれたのである。
第78代二条天皇の御宇、左大臣藤原経房の二男、尾瀬三郎藤原房利は、時の美しい后(きさき)に深い思いを寄せていた。
病弱の帝は在位6年わずか22歳で早世されたが、残された若き皇妃は才色すぐれ水も滴る許りの容色は宮廷の内外に其の比を見なかった。
妃は尾瀬三郎と、いつしか割なき間柄となった。
尾瀬三郎は絵もよくたしなんだという。
ある時、后の絵姿を書き、見つめていると、絵筆の先から胸のあたりにポタリと滴が落ちた。
それを同じく后に恋していた平清盛が見、「ここにほくろがあることまで知っていたとは、」と言いがかりをつけ、三郎を越後に流し、都から追い払った。
尾瀬三郎は従臣浮田の一党を伴って、遥々越の国薮神の庄(現在の湯之谷村である)に辿りついた。
さて恋仇清盛に敗れた三郎が京の地を離れるに際し御妃はひそかに三郎に形見として虚空蔵菩薩の尊像を賜わった。
三郎房利はこれを守り本尊として崇め、片時も肌身を離さなかったという。
哀れに思った土地の豪族はひそかにこれを関東方面に逃したが、山中に迷い込んでしまう。すると行く手に童子が現れ、枝を折々道案内してくれた。
枝折峠の名はここに起因すと云う。
さて一行、この頂に立って見渡すに渓谷は東南に向って展け、一条の清流せんかんと東流するを見て勢いづけられ、流れに沿って前へ前へと進む程に、遂に更に大きな一川との合流点に達した。
右せんか左せんかと跨躇することしばし、この時偶々上流から笠の骨らしいものの流れ来るを発見。
依って川上に人家ありと見、猶も歩をつづけて川を遡ること数日、遂に口内(燵岳)の山麓に大きな沼を発見した。
(・‥後、尾瀬三郎の名にちなんでこの沼を尾瀬沼という。)
此に於て附近の岩窟に居を定め、此所を本拠として広く志を同じくするものと密かに通じ藤原家再興を画し、営々として金銀、武具等戦備蓄積に努め、それらの埋蔵地は汎く関八州に及んだ。
又、同時に尾瀬周辺に天嶮を求めて要害の砦さえ築いたものの、天彼にくみせず哀れ三郎房利は大事を前にして空しく配所の鬼と化し、これがため家臣亦離散して、ここに尾瀬氏は威亡した。
三郎房利の歿後、その尊崇し来った守り本尊の化身は牛に乗って川をひた下りに下ったが、浪拝の岩場で牛は敢えない最期をとげた。
この地点を牛淵と称し今に伝わる。さて件の化身は暫らく此所の岩壁に休まれ後、更に下って北之岐川との合流点に達した時、蛇を呼びこれに乗って川を下ったが両岸欝蒼たる断崖相迫り昼猶暗く、見ゆるものとては只々川ばかり。この伝説あるため後世この川を只見川と呼ぶに至ったという。
かくて化身はなおも下って会津、柳津にとどまると後祀られて柳津虚空威尊となり、今会津有数の霊場である。
昭和40年に尾瀬三郎の石造が建てられた。
悲劇の大宮人の姿を今に伝えている。
さて、このふたつの『尾瀬三郎物語』には、二条天皇や平清盛など、誰にも知られた歴史上の有名人が登場しますが、これらの有名な人達の間で演じられたという“恋のさや当て”なる事件が、当時の時間軸で絶対に存在し得ないことをまず明らかにした上で、“尾瀬三郎房利という青年は実は架空上の人物である” とし、更に湯之谷の山里に伝わる『尾瀬三郎物語のストーリーは歴史を全く無視して勝手に誰かが作りあげたもの』だったと結論づけます。
しかし、この『尾瀬三郎物語』という言い伝えの裏には、『実は、昔々に本当にこの土地に起こった真実の物語、いわゆる ”裏の史実” があったのだ』という、これまで誰も言わなかったお話を始めようと思っています。
これまで旧湯之谷村の山奥に伝わる『尾瀬三郎物語』をトコトン調べてみようなんて物好きは恐らくいなかったでしょう。
調べれば調べるほど、この『尾瀬三郎物語』が実は奥深い意味を持っているという事が明らかになっていきます。
今まで、誰も知らない、そして、誰も言わなかった『京の都』と『越後国』との関連が・・・それも八百年も前の、隠され、埋没された日本の裏の歴史の1ページを『尾瀬三郎物語』が語って見せてくれるのです。
信じるか、信じないかは貴方次第です。
なにしろ、日本の全ての歴史学者と国民の99.99%が信じていない驚きのお話しなのですから。
さて、このふたつの『尾瀬三郎物語』には、登場人物が5名出てきます。
5名の内、『尾瀬三郎こと房利』と名前が明らかにされていない『皇妃』を除く、藤原経房・二条天皇・平清盛の3人については実在の人物として良く知られています。
ただ、二条天皇の皇妃となると、対象者が複数人いましたので、確定はできません。
藤原経房・二条天皇・平清盛の3人は、生年・没年やその生涯は今では充分明らかになっており、それぞれの年代を重ねて検証してみると、左大臣藤原経房の次男であるという房利という青年が、平清盛と、二条天皇崩御後の皇妃のどなたかを巡って “恋のさや当て” なる事件を演じたなどという可能性は万にひとつも有り得ないという結果になってしまいました。
下に、その検証結果を示します。
藤原経房【ふじわらのつねふさ】(1142年生―1200年没)
長男定経【さだつね】(1158年生―?)
次男房利【ふさとし】(1158年以降生―?)
平清盛 (1118年生-1181年没 没年齢63歳)
二条天皇(1143年生-1165年崩御)
二条天皇崩御の年
平清盛47歳
藤原経房23歳 経房の長男定経7歳
従って、次男房利7歳以下
中宮多子【まさるこ又はたし】26歳
中宮育子【むねこ又はいくし】20歳
※1162年 多子22才の時 父親公能【きんよし】没。
1年間の喪中の間に育子が中宮に。
二条天皇崩御の年、多子出家。
一方、育子は二条天皇崩御時の中宮。
天皇崩御の3年後に23歳で出家。
28才で生涯を閉じる。
このように、関係する登場人物の生年・没年を並べて検証してみると、ふたりのお后とも二条天皇崩御後、同年或いは3年後に出家していますから、経房の次男の三郎(房利)という、天皇崩御時7歳以下の幼児が後に青年に成長して、どちらかのお后を、老齢の清盛と恋争いをした等という可能性は万にひとつも有り得ない話となってしまいました。
また藤原経房の長男定経の実在は確認できましたが、次男房利という名は確認できませんでした。
これらの理由から、旧湯之谷村の山奥に伝わる『尾瀬三郎物語』は、辻褄の合わない単なる『言い伝え』あるいは『伝説』『作り話』であると結論づけられてしまいました。
即ち経房の次男の『尾瀬三郎房利』という青年は『伝説』上の架空の人物名であった。
この結論は間違いないでしょう。
しかし、『尾瀬三郎物語』という言い伝えは、旧湯之谷村の人々に昔々から親から子へ綿々と伝えられてきました。
昔といっても、その年代は今から何百年も前の、気の遠くなるような昔のお話です。
文字で伝えられたのでは有りません。
耳から耳へと、途絶えることなく伝えられ、現在に至っているのです。
伝えられる途中で、内容が部分的に変化することは充分有り得るでしょう。
途中で変化した部分を明らかにし、その部分を取り除いた時、真実の『尾瀬三郎物語』が私達の前に現れるのではないでしょうか?
これから、お話しする『尾瀬三郎物語の謎を解く』は『尾瀬三郎こと房利という人物は実在しないが、実はもっともっと奥の深い意味がこの物語の裏に隠されている』というお話なのです。
まずは、尾瀬三郎房利の父親であるという『藤原経房』という人物から詳しく調べてみましょう。
最初に断っておきますが、藤原経房は左大臣と言いますから、同姓同名が何人もいたなんて事は考えないで議論を進めます。
藤原経房という人は平氏政権のもとで、わずか9歳で従五位下・侍従に任じられています。
その後、後白河天皇の姉である上西門院や妃の建春門院の側近となる一方で、六条・高倉両天皇の蔵人を務めた事から、平清盛の知遇を得ます。
その後、嘉応2年(1170年)左少弁に任ぜられ、三事兼帯して以降、各弁官(右少弁以外を全て歴任)や内蔵頭を歴任、治承三年の政変直前の10月10日、参議に昇進した藤原光能の後任として蔵人頭となります。
やがて安徳天皇が即位して高倉上皇が院政を開始(当時、後白河法皇は幽閉中であった)すると、蔵人頭と新院の院別当を兼務します。
※:以上インターネットからの抜粋
このように、藤原経房は二条天皇崩御後も、平氏政権のもとで順調に出世を重ねています。
もし、藤原経房の次男である房利が清盛と二条天皇の皇妃をめぐっての『恋のさや当て』を演じて、清盛が房利を越後に流させたなどという事件が有ったとすれば、その父親である経房の順調な出世など有り得ないでしょう。
そこで、『尾瀬三郎物語』から『藤原経房』と、尾瀬三郎と称される『房利』を取り敢えず削除して『尾瀬三郎物語』を見てみましょう。
二条天皇に若くして逝かれた皇妃をめぐって、平清盛と恋のさや当てを演じて、清盛の策謀により、越後へ流された・・・
さて、二条天皇が崩御なされた時代、平清盛との間で何らかの事件が起こり、平清盛によって越後に流された人物が誰かいただろうか?
日本の正史上では心当たりは有りません。
でも、旧湯之谷村にはもうひとつの村人間に伝わる『藤原頼国【よりくに】の物語』が有りました。
旧湯之谷村に伝わる藤原房利を主人公とした『尾瀬三郎物語』の元の話が『藤原頼国【よりくに】の物語』の中の、高倉宮以仁王御潜行物語であるとしたら、この三つの言い伝えは不思議とぴったりと重なり合うことになります。
『藤原頼国の物語』に依れば、以仁王と供に尾瀬にたどり着いた頼国の弟頼実は尾瀬で息を引き取ります。
その後、頼国は頼実の眠る尾瀬ヶ平に住むことになりました。
『藤原頼国の物語』の主人公は『以仁王』です。
頼国や弟の頼実は『以仁王』の単なる従者に過ぎません。
この物語の中にある一文。
『後白河天皇第二の皇子高倉宮以仁王は平氏追討令を全国の源氏に発し、挙兵をうながしました。しかし、ただちに平氏側に企ては発覚し、奈良街道井手の里にて三十歳で討死したとされています』
というのは、正に日本の正史なのです。
しかし、続きの
『伝説では、ひそかに再起を計るべく、源頼政の弟(越後の源頼之)をたよって従者と共に御潜行の旅につきました』
がこれから述べる問題の核心部分なのです。
しかし、『伝説では・・・』と断りが入っています。
つまり、『藤原頼国の物語』では、『以仁王の御潜行の旅』は史実ではなく伝説即ち、単なる言い伝えと決めつけているのです。
しかし、伝説ではあるが、清盛と争いを起こし、越後までの逃亡の旅に出た人として『以仁王』という人物がいたことが漸く分かってきました。
この『高倉宮以仁王の御潜行伝説』を調べていくと、驚いたことに南会津の多くの集落を始め、新潟県内の旧下田村や旧小国町、東蒲原の旧上川村とその周辺地区に以仁王の伝説が数多く存在していることが分かりました。
この『高倉宮以仁王の御潜行伝説』が文字通り伝説で有ったならば、当然、以仁王の従者の『藤原頼国』もまた伝説上の人物となってしまいます。
さて、『高倉宮以仁王』とはいかなる人物なのでしょうか?
『尾瀬三郎物語』や『藤原頼国の物語』のカギを握る人物として、『高倉宮以仁王』を詳しく調べる必要が出てきました。
前章で述べたとおり、尾瀬三郎は藤原経房の二男ではありませんでした。
尾瀬三郎がもしかして高倉宮以仁王だと仮定しても、問題は、『恋のさや当て』を演じた事件が、高倉宮以仁王周辺に果たして事実として有ったのかどうかです。
しかし、いくら調べても以仁王と二条天皇の皇妃が全く結びつかないのです。
日本の正史では、1180年(治承4年)、以仁王は清盛追討の『以仁王の乱』を起こし、結局同年清盛軍に命を絶たれてしまいますが、この乱の原因を、二条天皇の皇妃とする論説は全く見あたらないのです。
さらに『以仁王が越後に流されたとする説』は、それこそ、日本の歴史上では絶対にあり得ない話として、又、越後地方や会津地方の単なる『伝説』でしかないとして、大多数の歴史学者達は否定しているのです・・・・・・。
そこで、相当大胆な仮定の話として、『尾瀬三郎物語』は実は “高倉宮以仁王御潜行説” の一部分だったとして歴史を紐解いていくことにします。
以仁王というお方は、親王宣下の降りなかった皇族のおひとりです。
以仁王は京都三条の高倉の館に住んでおりました。
そのため、三条高倉宮とも三条宮とも高倉宮とも呼ばれております。
また、以仁王の父は後白河天皇ですが、以仁王は後白河天皇の第二皇子とも第三皇子とも言われています。
これは、2番目の兄、守覚法親王【しゅかくほうしんのう】が若くして仏門に入り自ら天皇になる資格を逸したから3番目でありながら2番目の皇子とみなされたということです。
ちなみに以仁王の長兄は第68代二条天皇です。
二条天皇の母は懿子【よしこ】、以仁王の母は閑院流【かんいんりゅう】李成【すえなり】の娘・成子【しげこ】ですから、二条天皇とは異母兄弟の関係になります。
二条天皇は、異母弟・憲仁【のりひと】(後の高倉天皇)の擁立を画策したとして、憲仁の叔父・平時忠【ときただ】を流罪、平教盛【のりもり】・藤原成親【なりちか】・藤原信隆【のぶたか】を解官した上で後白河法皇の院政を停止させました。
この事などから、二条天皇と後白河法皇との仲は決定的に悪くなります。
また、憲仁の生母は平滋子【しげこ】で清盛の正室時子【ときこ】の姉に当たります。
平滋子は我が子、憲仁をゆくゆくは二条天皇の次の天皇にしたいと思っていました。
平清盛にしても平家の血筋を天皇に入れたいと思うのは当然です。
一方、二条天皇も、我子を天皇にしたいと考えていました。
次に二条天皇の皇妃です。
二条天皇が崩御なされた時の中宮は育子ですが『尾瀬三郎物語2』の『二条天皇に若くして逝かれた皇妃』即ち、若い皇妃は?というと複数いるのです。
二条天皇と皇妃の関係を見てみましょう。
二条天皇がまだ14歳の守仁親王である頃、妹子【よしこ】内親王が入御します。(1156年)
二条天皇、15歳で即位します。(1158年)
翌年、妹子内親王が中宮になります。(1159年)
妹子19歳です。
妹子20歳で病に倒れ出家します。(1160年)
子供は生まれておりません。
二条天皇、18歳の時、藤原多子【まさるこ又はたし】21歳で入内します。(1160年)
翌年、多子の父公能が亡くなります。(1161年)
多子は1年間の喪に入ります。(天皇から完全に隔離されます)
子供は生まれておりません。
二条天皇19歳の時、藤原育子【むねこ又はいくし】16歳で入内します。(1161年)
翌年、育子17歳で中宮となります。(1162年)
育子の養父藤原忠通が亡くなります。(1164年)
二条天皇23歳で退位し、崩御します。(1165年)
育子23歳で出家します。(1168年)
子供は生まれておりません。
二条天皇には、このように3名の皇妃がおりましたが、この皇妃からは次の天皇になる皇子が生まれていません。
しかし、二条天皇には2人の皇子がおります。
第一皇子は後の大僧都・尊恵【そんえ】(母は右馬助・源光成【みつなり】の女)です。
1165年、二条天皇は体調が思わしくなく、まだ7ヶ月の二条天皇の第二皇子である順仁【のぶひと】(第69代六条天皇)に譲位し、同年崩御します。
この順仁の母は伊岐致遠女【いきのむねとうのむすめ】という宮人でした。
この伊岐致遠女は下級貴族出身であったため、六条天皇の即位に際しては二条天皇の中宮育子が准母となっています。
六条天皇は2歳(満7ヶ月)で即位しますが、5歳(満3歳3ヶ月)で後白河法皇により退位させられ、13歳の若さで崩御します。
以上のように、お后に伊岐致遠女等をいれると二条天皇の皇妃の該当者は3名以上になってしまいます。
この複数の女性の内、以仁王と何等かの関連のあったのはどなたでしょうか?
二条天皇の中宮多子にお仕えした侍従に「待宵小侍従【まつよいのこじじゅう】」という女官がいました。
和歌、和笛、和琴などを嗜むなかなかの秀才でした。
中宮多子も書、絵、琴、琵琶を嗜んだ秀才と言われています。
多子は第76代近衛【このえ】天皇の皇后だった人です。
後にも先にも先代の天皇の皇后を自分の中宮にした例は有りません。
それほど、魅力のある女性だったからでしょうか。
周囲は大反対しますが、二条天皇は多子を中宮として迎えることを自ら宣言し中宮として迎えます。
待宵小侍従と多子とは年が離れていますから、もしかしたら、中宮多子に琴や琵琶を指導した一人がこの待宵小侍従である可能性が強いと思っています。
また「和琴系図」「和琴血流」には待宵小侍従は以仁王にも和琴を伝授したと有ります。
なお、以仁王は笛の名手でもありました。
待宵小侍従と多子と以仁王は今でいう『バンド仲間』的関係だったのでしょうか。
更に、この小侍従さん、何と17歳も年の離れた源頼政と恋愛関係になります。
この関係は、多くの歴史学者が、ふたりが取り交わした和歌で証明しています。
源頼政といえば、ぬえ退治で有名ですが、以仁王に『平清盛追討の令旨』を書かせた張本人として平家物語に登場します。
ようやく、多子、以仁王、源頼政の相関関係が待宵小侍従を中心にして明らかになってきました。
中宮多子の屋敷と源頼政の屋敷は近衛河原の路を挟んだ至近距離に建っていたと言われています。
以仁王が住む屋敷も近衛河原から近くの三条高倉の地に有りました。
このように、3人と小侍従はいつでも連絡を取り得る場所に住んでいたのです。
平家物語では、源頼政が突然、以仁王を尋ねて平家追討の謀反を持ちかけるように語られていますが、二条天皇が存命の時(1165年以前)からこの4人は知り合いだったのです。
再び、歴史に戻ります。
二条天皇は元々体が弱く、病気がちでした。
自らの命が僅かしかないと察知した二条天皇は、1165年7月27日、我子順仁【のぶひと】を次の天皇として即位させました。
この天皇が六条天皇です。
しかし、この時、わずか2歳(満7か月)の幼児でした。
その翌日の7月28日、二条天皇が崩御致します。
二条天皇が崩御なされた時を境に、清盛の反撃が始まります。
残された六条天皇は僅か2歳です。
8月17日、中宮多子の兄、藤原実定【さねさだ】は平清盛から権大納言から正二位に降格させられます。
中宮多子も動きました。
12月16日、以仁王を近衛河原の多子の屋敷で元服させます。
元服とは大人になる儀式です。
以仁王にとっては、別の重要な意味があるのです。
皇室のひとりとしての世継ぎを産むということを宣言した事になるのです。
以仁王の元服は密かに行われましたが平清盛の耳にはいずれははいるでしょう。
多子が以仁王の元服を自分の屋敷で行うという行動は、当然ながら亡き二条天皇の皇位継承の志を受け継いだものです。
即ち、以仁王に我子六条天皇を守ってほしい、そして、六条天皇の次の天皇になってほしいということでしょう。
しかし、12月25日に、清盛の正室時子【ときこ】の姉にあたる平滋子【しげこ】が産んだ憲仁【のりひと】に親王宣旨が後白河法皇から下りてしまいました。
後白河法皇が六条天皇の次の天皇は平滋子が産んだ憲仁だと宣言したのです。
後白河法皇が寵愛していた平滋子の意を汲んだに相違有りません。
六条天皇の次に皇位継承権の有ってしかるべき以仁王には親王宣旨は有りませんでした。
六条天皇はまだ2歳の赤ん坊です。
この後白河法皇による憲仁親王宣旨は、皇位継承権が親二条天皇側(閑院流)から清盛側に完全に移ったことを意味します。
翌年2月27日、多子は出家します。
身の危険を感じたからでしょうか。
このように、以仁王が二条天皇の后である多子をめぐって、清盛と恋のさや当てを演じるような事は万に一つもあり得ませんが、以仁王の元服を多子の屋敷で行ったことを知った清盛は、多子と以仁王の男女関係に嫉妬した可能性は充分あり得ます。
幼い六条天皇は、在位僅か2年と8ヶ月で後白河法皇により天皇の座を降ろされました。
そして、平滋子の子、憲仁親王が、1168年3月30日第80代高倉天皇として即位します。
後白河法皇と平清盛が手を組んだのです。
平清盛が後白河法皇を取り込んだのです。
さらに、清盛は自分の娘徳子【とくこ】を高倉天皇の中宮として入内させます。
清盛の娘徳子は言仁【ときひと】、後の第81代安徳【あんとく】天皇を産みます。
治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇が退位し、徳子の産んだ言仁親王(安徳天皇)が4月22日即位します。
一介の武士でしかなかった平清盛の長年の願いがようやく叶い、遂に天皇の祖父(おじいちゃん)にまで昇り詰めたのです。
平清盛にしてみれば、天皇の祖父となった今や、親王宣下のない以仁王なんて、なんの脅威でも無くなったのです。
ところが、この年1180年(治承4年4月9日)安徳天皇が即位(4月22日)した僅か13日ほど前、以仁王から東国の源氏に「清盛追討の令旨」が発令されたのです。
平家物語では源頼政が突然以仁王を尋ねて令旨を書かせたように語らせていますが、実は故二条天皇、中宮多子、小侍従、源頼政たちの清盛との皇位継承争いに負けた怨念が、以仁王に平家追討の決起を決意させたと言えるでしょう。
「平家物語」によれば・・・・・・・
平清盛は令旨が発令された事実を知らされ激怒します。
平清盛は、まさか自分の政権の一員である源頼政がこの事件を仕組んだとは知りませんでした。
この事実を知らない平清盛は、源頼政の息子らに京の屋敷に居る以仁王をとらえるよう命令を出します。
命令を受けた息子達は早速源頼政に報告します。
驚いたのは、源頼政です。
こんなにも早く企みがばれるとは思いも依りませんでした。
報告を受けた頼政は、とりあえず、以仁王に、三井寺に逃げるよう伝令をだします。
そして、以仁王は女装して徒歩で山道を三井寺に向かって逃げることになります。
しかし、逃げ込んだ三井寺に平家軍が迫ります。
後から合流した頼政等とともに、以仁王は三井寺を出、奈良興福寺に向かいます。
途中の宇治あたりで平家軍に追いつかれ、宇治平等院に逃げ込み宇治川を挟んで平家軍と対峙します。
以仁王は数名の護衛とともに、宇治平等院を抜け出し、奈良興福寺に向かいますが、奈良に入る手前の光明山寺の大鳥居の前で、追いついた平家軍の放った矢に左脇腹を射抜かれ落馬し戦死してしまいます。
以仁王30歳の若い生涯でした・・・・・・。
これが、正史です。
これが、日本の現在の正史なのです。
以仁王はこの時死ぬのです。
正史からは、以仁王が “尾瀬まで逃げてきた” なんてことは、絶対にあり得ない話なのです。
更に平家物語は続きます。
以仁王の首は清盛の前で首実検にかけられます。
しかし、平家の中には以仁王の顔を知るものは誰一人としていませんでした。
そこで、以仁王の子供を産んだ女房が首実検に立ち会わされます。
その時の様子を平家物語では次の様に語ります。
結局宮の愛した女房を呼ぶという残酷な話になった。
宮の深い愛情を受け、子供までもうけた女房であり、もちろん見間違うはずはない。
宮の首を見せられた途端に袖を顔に押し当てて泣いた。
さすがにその場で声を出すものもない。
・・・・・・と言うことで、この首は「以仁王」に間違いないということになったのです。
さて、皆さんは、この『首』が以仁王本人だと思われますか?
首実検にかけながら「この首は間違いなく以仁王である」との言質をとっていません。
女房が『袖を顔に押し当てて泣いた』という理由だけから清盛は以仁王本人と断定しました。
南会津や越後には、以仁王の言い伝えが数多く残っています。
これらの言い伝えは現代では “絶対にあり得ない伝説” として語られます。
従って、以仁王をモチィーフにした湯之谷村の『尾瀬三郎物語』も同様にこの “あり得ない物語” のひとつとして語られてしまうでしょう。
“右大臣藤原経房の次男が房利である” ということも、『あり得ない物語』の根拠となっています。
更に、仮に、房利が以仁王であったとしても、死んだはずの以仁王がこんな山奥にいるわけがないと・・・・・・。
しかし、湯之谷村の言い伝えでは以仁王は尾瀬にいたのです。
遠い京都から尾瀬まで逃げてきたのです。
『どうやって死んだはずの以仁王が尾瀬まで逃げられたのか』って?
そうなのです。
以仁王が戦場から無事脱出できた『トリック』を明快に解明できない限り、誰も信じてくれそうもないですよね。
この以仁王の “脱出トリック” は今では99%説明できるところまで来ています。
“脱出トリック” の説明は、別の章でお話ししますが、兎に角、『以仁王は平等院からの脱出に成功し尾瀬まで逃げてきた』として尾瀬三郎物語を続けます。
最初に戻りましょう。
銀山平の例の説明文です。
尾瀬三郎は左大臣藤原経房の次男で名を房利といい、二条天皇に若くして逝かれた皇妃をめぐって、平清盛と恋のさや当てを演じて、清盛の策謀により、越後へ流された・・・・・・(以下省略)
は次のようになります。
後白河法皇の次男とも三男ともいわれる以仁王は、二条天皇や、若くして逝かれた皇妃多子らの望みを受け継いで平清盛と皇位継承権をめぐって争ったが、負け、更に治承三年に起きた以仁王の乱でも清盛との戦いに敗れ、越後に向かって逃亡することになった。
如何でしょうか?
あくまでも以仁王は生きて京都宇治平等院からの脱出に成功したということが大前提です。
さて、京都宇治平等院からの脱出に成功した以仁王一行は、沼田に到着します。
そして、沼田から尾瀬ヶ原に入り尾瀬ヶ原から越後を目指しました。
南会津に伝わる以仁王逃亡説は何故か沼田から始まっています。
『沼田までの足取りが全く残されていない』ことが、以仁王逃亡説を単なる伝説とする大きな理由のひとつとなっていますが、山梨県巨摩郡南部町に、以仁王の言い伝えが残っています。
若宮八幡宮という神社がありそこに以仁王が祀られています。
京都から沼田までの中で、以仁王の足跡が残っているのは、この若宮八幡宮だけです。
ところが、この若宮八幡宮から更に富士川を上って行っても、沼田には直接到着できないのです。
富士川を離れ、陸路でいくつもの峠越えをしない限り沼田へは到着できないのです。
それに、陸路を通ったとすれば、何等かの足取りが経路上に残ってしまいます。
しかし、どこにも以仁王の言い伝えが皆無なのです。
詳しくは『脱出トリックの解明』で説明します。
以仁王は沼田から尾瀬に入ります。
尾瀬ヶ原からは、地図上では只見川を下っていき途中から峠越えをすれば最短距離で越後平野に出ることができます。
頼政が示した一行の目的地は越後の小国の源頼之領です。
尾瀬ヶ原まで到着した一行は当然ながら、只見川を下る越後への道を求めたに違い有りません。
そのために、従者の頭、渡辺長七唱【わたなべのちょうひちとなう】は、一行のうちの誰かに越後への道を探索させたのでしょう。
『尾瀬三郎』は実は『以仁王』ではないのか?
この前提は崩れました。
もし、『尾瀬三郎』が『以仁王』であったならば、せっかく魚沼薮神庄までたどり着いたのですから、『尾瀬三郎』こと『以仁王』は、そのまま越後小国の頼之領に直行するでしょう。
しかし、『尾瀬三郎』は再び尾瀬に戻って行きました。
尾瀬ヶ原から越後への道を辿ったのは『以仁王』ではなく『尾瀬三郎』でした。
そうです、尾瀬三郎は以仁王一行の従者の一人だったのです。
しかし、南会津の言い伝えでは、一行は只見川を下る越後への道を選択しませんでした。
南会津に伝わる言い伝えによると、一行は、尾瀬から、檜枝岐の方向に進路を取り、南会津の村々を右往左往した揚句に、結局は八十里越で越後に入る道を選びました。
改めて、尾瀬三郎物語を見てみましょう。
後半の説明部分です。
尾瀬三郎は・・・・・・中略・・・・・・越後へ流された。
数名の従者を連れて湯ノ谷の山に分け入った三郎が、やがて道が険しくなり、馬から下りて歩き始めたところが、現在の湯之谷村の折立で、あまりの難路に、三郎一行があたりの木々の枝を折々超えたのが、枝折峠(しおりとうげ)だという。
苦難の末に尾瀬にたどり着いた三郎は、燧ヶ岳山麓の岩窟を住処として、都への帰還を画策していたが志ならず尾瀬で果てた。
この説明文を普通に解釈すると、『越後(旧湯之谷村で古くは藪神庄といった地域をイメージ)に流されていた三郎が、尾瀬に向けて、湯之谷の山に分け入った。
そして、枝折峠を越えた。
その時、木々の枝を折りながら峠を越えた』と理解できてしまいます。
何故、枝を折りながら越えるの?
それは、普通は道を戻るためですよね。
また、何故、都へ行くのにわざわざ山奥の尾瀬経由で行く必要があるの?
そうです。
言い伝えが相当省略されました。
それを復元してみましょう。
数名の従者を連れて(尾瀬ヶ原から)湯之谷の山に分け入った三郎が、やがて道が険しくなり、馬から下りて歩き始めたところが、現在の湯之谷村の折立で、あまりの難路に、(帰る道が分かるように、)三郎一行があたりの木々の枝を折々超えたのが、枝折峠だという。
(藪神庄に着いた三郎は、村人から「川を下れば小国に行ける」ことを確認したあと、再び以仁王の待つ尾瀬に向けて山道に入りました)
苦難の末に尾瀬にたどり着いた(が、尾瀬には以仁王一行の姿はなく、仕方なく)三郎は、燧ヶ岳山麓の岩窟を住処として、都への帰還を画策していたが志ならず尾瀬で果てた。
後半の『燧ヶ岳山麓の岩窟を住処として、都への帰還を画策していたが志ならず尾瀬で果てた』というのは、三郎が何時までたっても戻ってこないので、『きっと、死んじまったのだ』と村人は思っってこのような結論になったのでしょう。
如何でしょうか?
それにしても、藪神庄の村人の驚き様を想像してみましょう。
山から突如見たこともない都の装束を着た若者が降りてきました。
銀山平の尾瀬三郎像に見られるような烏帽子に公家装束は村人には初めて目にする装束姿です。
その若者は、ハンサムで、その上背が高く、忽ち村中の評判になりました。
彼は自分が何者かを村人に語ります。
都で平家の平清盛と戦って逃げてきたこと。
源頼之のいる小国領へ行きたいこと。
自分には次の天皇になる『高倉宮以仁王』という方が付いていること。
その天皇になる方は、先の後白河法皇の三男であること。
しかし二番目の皇位継承権があること。
長男の二条天皇は崩御したこと。
山を越え、枝を折々ようやくここにたどり着いたこと。
次の天皇になられる高倉宮以仁王は『尾瀬ヶ原』で待っていること。
王の待っている『尾瀬ヶ原』という所は、あたり一面花が咲き乱れ、さながら極楽のような大湿原であること。
自分は、これから以仁王の待っている『尾瀬』に戻り、又再び以仁王をお連れしてこの村に帰ってくること等々。
しかし、「又戻ってくる」と言って、山に帰っていった若者は二度と村人の前には現れませんでした。
村人は、山の彼方に『尾瀬ヶ原や尾瀬沼』という素晴らしい湿原があることを若者から聞いて初めて『尾瀬』という場所を知ることになります。
『尾瀬』という地名は、当時『尾瀬』では既に使われていました。
片品村史には、この湿原は千年前に尾瀬氏が支配していたと記述がありました。
しかし、越後の村人には『尾瀬』という名称を、この若者が初めて村人に紹介したのです。
村人にとって決して忘れることのない夢のような一瞬の出来事だったのです。
村人達はこの若者をいつしか『尾瀬の三郎』と呼ぶことになりました。
若者を案内してきた従者(尾瀬の村人)が「三郎様」と呼んでいたからでしょう。
若者は尾瀬からの途中にふたつの素晴らしい滝があることも村人に話して聞かせました。
ひとつは、落差が三十条もある雄大な滝です。
そうして、もうひとつは、滝の形状が平で滑るように流れる滝です。
三郎が付けたのか或いは従者が付けたのか分かりませんが、三十条もの落差のある滝を三条宮に掛けて『三条滝』、滑るように流れる平な滝を清盛に掛けて『平清盛が滑り落ちる滝』即ち『平滑滝』と呼ぶようになりました。
このふたつの滝の名前の由来は全くの根拠のない私の想像です。
しかし、現在のところ、このふたつの滝の名の由来は何故か不明となっています。
ただ、三条滝については落差三十条がなまって『三条』になったとする説が残っています。
ということで、藪神庄の村人の間で、『尾瀬三郎物語』は親から子へと延々と語り継がれることになりました。
ここまでのストーリーを簡単にまとめてみます。
以仁王は皇位継承を巡って、平家打倒を企てます。
しかし、その企ては早々に発覚し、平等院で平家の大軍に囲まれ、源氏の総大将頼政は自刃、その嫡子仲綱も自刃、頼政軍は敗北します。
以仁王は宇治平等院からの脱出に成功しますが・・・・
平家の追手に首を討ち取られます。
ここまでが、正史です。
実は、討ち取られたのは別人で、本物は越後の小国源頼之領に向け逃亡の旅に出ます。
一行は沼田にたどり着き、そこから尾瀬に入り、直接越後への道を探します。
一行の頭渡辺長七唱は、尾瀬に以仁王を残し、ひとりの若者を越後への道の探索に出させます。
その若者は、ようやく薮神庄に辿りつき、再び、王の待つ尾瀬に戻ります。
しかし、王のもとに戻ったものの、何故か王を連れて再び薮神庄に向かいませんでした。
村人は、この若者をいつしか『尾瀬三郎』とか『藤原頼国』とか呼ぶようになりました。
・・・・終わり・・・
これが、湯之谷村銀山平に伝わる『尾瀬三郎物語』なのです。
以仁王は平等院の戦場を抜け出すのに成功しました。
正史では、抜け出した後に王は平家の追手に首を討ち取られます。
いよいよ、次章では、どんなトリックを用いて、脱出に成功したのかの説明に入ります。
さらに、平等院から沼田までの逃亡経路も明らかにします。
民族学の権威柳田國男氏は彼の著書の中で以仁王逃亡説について次のように書いています。
・・・・越後東蒲原の中山という奥在所に・・・・天皇は世の中の乱れを御厭いなされて、伊豆守仲綱という武士を召連れ給い、密かにこの地に行幸あって御隠れなされたと称してその従者の末という者が十数戸、祖先の誇りをもって今もそこに住んで居る・・・・・、平家物語や盛衰記の有ることも知らず、あっても読むことも出来なかった時代に、こういう固有名詞などは一つでも有った筈はない。
勿論最初は口にするのも勿体ないような旅の御方がとか、何でも遠い都の方から貴い神様のような御人が御降りになってとか、いう風に語り継いで居たのを、それが事実ならば日本武尊の他にはない、もしくは高倉宮の御事としか考えられぬと、新たに教えてくれる人は外に在ったのである。
・・・・たとえば中山の御所平伊豆守仲綱を説き、さては渡辺の唱競兄弟、猪隼太などというつわものの忠節と奮戦とを伝えて語えて居るのは、平家物語を読んだことの無い者の能くする所ではない・・・・(伝説より)
柳田國男氏は「平家物語に以仁王は平家に首を討ち取られたと書いてあるから、生きて逃亡したなんてとんでもない話だ」と主張しているのですが、果たして、柳田國男氏の主張通り、平家物語には本当に以仁王が平家に討ち取られたと間違いなく書いてあるのかどうか・・・・。
こう、ご期待です!
以仁王逃亡説を全くの作り話だとする理由のいくつかは次のとおりです。
①何の為に、この様なひどい中山の山中に、王が入ったのか明らかでない
②難を逃れ、乱を避け、安住の地を求めたにしては戦いの跡が多く、功名手柄を現しすぎる
③南会津の村々での話が多すぎる
④王は頼朝が上洛を果たした後までもこんな狭隘なる山奥に行き巡っていたことになってしまう
⑤このような逃亡伝説は、日本史上ではよくある話(義経伝説他)
⑥会津郡野村村にある「治承四年書之」とある社誌とか養和年間の日記は特に怖いものが多かった
⑦王から賜ったという宝物は明らかにその当時の物ではない
⑧王の御詠と伝えられた三十一文字は、如何にしてもあの頃のものらしくない
⑨そもそも、一行の中に小倉少将などの公家の名前が突如現れるのは作り話である証拠のひとつ
⑩清野家の起源が治承4年と主張するのであれば、中山集落に猿丸【さるまる】伝説が伝っているはずがない
⑪何故、小国から上川へ逃げたのか。ここは敵方の城氏が支配する土地ではないのか
⑫そもそも「光明山で以仁王が死ななかった」とする脱出トリックが理論的に解明されないかぎり、以仁王逃亡説は作り話としか考えられない
上記の内、①~⑩までは、日本が産んだ著名な大民族学者柳田國男が『史料としての伝説』『伝説』の中で述べています。
『史料としての伝説』では、以仁王逃亡説は歴史の知識のある木地師の某かが作りあげた作り話の一例として説明がなされています。
ただし、⑩の『中山集落に猿丸伝説が伝わっている』というのは、私が調べた限りにおいては、中山集落の全ての人が否定をしました。
実は『猿丸大夫【さるまるだゆう】の言い伝え』は別の集落に有りました。
阿賀野川支流実川の山奥です。
阿賀町日出谷集落から実川を9kmも奥の『五十嵐家住宅(史跡)』が有る場所です。
中山集落から道路距離で42Kmも離れています。
余談ですがここの猿丸伝説は
ここの出身の猿丸一族の一人が京に出て、この地の秋の風景を『奥山歌』として詠んだ。
京の都で出世した彼は名前を猿丸から人丸(猿丸太夫から柿本人麻呂)に変えた。
ちなみに『鹿瀬町』という地名は『奥山歌』から来ていると言う。
従って、猿丸伝説に関しては、柳田國男の明らかな誤りです。
⑪の上川地域は、頼政の最も信頼する配下のひとり、渡辺長七唱が属する渡辺党の拠点地域でした。
この上川地域には、現在も「渡部」と書いて、「わたなべ」と読ませる名字が多くあります。
④についてですが、秋になって、木曾義仲は以仁王の子『北陸宮』を押し立てて上洛しました。
京の都では以仁王は既に清盛の平家軍に光明山の鳥居の前で殺され、この世にいないことになっています。
仮に上川にたどり着いた以仁王が、『木曾義仲が上洛を果たした』との情報を得たとしても、今更名乗り出る必然性は有りません。
なぜなら、王の息子である『北陸宮』が次の天皇になれば以仁王の本来の目的は充分に達成するのですから。
①~⑨までは、”以仁王逃亡の事実が南会津を始め各地に史実として存在していたものを、後年に悪意に満ちた歴史の知識を持った木地師の某が自分たちの都合の良いように史実を塗り替えた”と解釈できると思っています。
柳田国男氏が、『元々無い史実を木地師の某が創作した』とするのに対して、私は『史実があったのに木地師の某が書き換えた』との立場をとります。
従って、木地師が創作したとする柳田国男氏の多くの主張の殆どを認めます。
相違点は以仁王が逃げて会津まで来たのが史実だったかどうかだけです。
最後の⑫であるが、未だ以仁王の平等院脱出トリックを100%解明した人はいない。
そもそも、日本の歴史上、以仁王は京都光明山寺の大鳥居の前で亡くなったのだと99.99%の人が信じている中で、今更、王の脱出トリックを解明しようなんて狂気の沙汰そのものである。
しかし、ただひとり、柿花仄【かきはなほのか】氏が『皇子・逃亡伝説』の中で王の脱出トリックを説明をしています。
私達も、この柿花仄氏の脱出トリックの本筋はほぼ間違いないと思っているので、柿花仄説に私の脱出トリック説を加え、説明することにしたい。
平清盛の娘徳子が産んだ『言仁』が安徳天皇として即位した僅か1月ほど後、以仁王から東国の源氏宛に『清盛追討の令旨』が発令されました。
1180年(治承4年4月)のことです。
この『清盛追討の令旨』を以仁王に書かせたのは、清盛政権の中で三位まで出世した源頼政でした。
『令旨』は源行家によって、東国に運ばれます。
しかし、5月早々に平清盛にばれてしまいます。
この様子を平家物語で見てみましょう。
尚、『平家物語』はインターネットで公開している『平家物語現代語訳』をそのまま使用することにします。
平清盛の3男、宗盛【むなもり】の屋敷に湛増【たんぞう】からの知らせが届きます。
熊野別当湛増からの飛脚が都へやってきました。湛増は源氏の血を引くものながら、妹が平薩摩守忠度の妻になったこともあって平家の一派に属していた人物です。飛脚は高倉宮(以仁王)の謀叛を告げていました。以仁王と源頼政との企ては早くも露顕したのです。宗盛は驚き慌てて、福原の清盛に連絡すると、清盛はこれを聞くや否や、「是非を問うている場合ではない。すぐに高倉宮を絡めとって、土佐の幡多へ流せ」と怒鳴りつけました。
清盛から「是非を問うている場合ではない。すぐに高倉宮を絡めとって、土佐の幡多へ流せ」と怒鳴りつけられた宗盛は、早速以仁王を捕縛するための軍団を編成します。
ところが、その軍団の中に・・・・・。
平家物語です。
都では高倉宮捕縛の責任者に三条大納言実房が、実務担当をとる蔵人が頭弁藤原光雅となり、源大夫判官兼綱、出羽判官光長が命をうけて三条高倉の以仁王邸へ向かいました。この源大夫判官兼綱は、源三位入道頼政の次男であります。源頼政の近親者を捕縛の手勢に入れたのは、この高倉宮のご謀叛を頼政が勧めたものだということを平家がまだ知らなかったからであります。
以仁王捕縛の責任者の一人に頼政の次男『兼綱【かねつな】』がいたのです。
清盛の命を受けた兼綱は、当然、父親である頼政に報告します。
兼綱からこの報告を受け取った頼政にしてみれば、こんなにも早く企みが露見したとは大誤算でした。
しかし、頼政にしてみれば露見が早かったことよりも、もっともっと大きな見込み違いがあったのです。
清盛は、事も有ろうか皇族である以仁王を臣籍降下させ、『源以光』の名で「土佐に配流させよ」と命令を下したのです。
頼政は、まさか以仁王本人に直接危害が及ぶ事になろうとは思っていませんでした。
将来天皇になる可能性のある御方に、一介の武士でしかない清盛がこのような命令を下すなんて万にひとつもあり得ないと思っていました。
ところが現実には、武士の頂点に立つ清盛からその命令が発せられたのです。
清盛は、以仁王を皇族ではなく一般人に降格させた上で命令を下したのです。
清盛は、この命令を出した時点では、黒幕がまさか頼政だとは知りません。
だから、清盛は、以仁王のみをターゲットにしたのです。
頼政としては、令旨が東国に届いて頼朝、義経、義仲らが東国で蜂起した後で、かくまえばいいと思っていたのです。
兼綱からの報告を受けた頼政は急いで以仁王が住んでいる三条高倉の屋敷に使いを出します。
以仁王に、頼政からの知らせが来た様子を平家物語で見てみましょう。
治承四年五月、この日はちょうど十五夜のころで、高倉宮(以仁王)は雲間の月など眺めながら、「平家追討の命令を下したとはいえ、今はまだ隠密行動の時期である。下手に自分が動けば、余計に相手を勘ぐらせることになる。これからの行く末のことをあれやこれやと考えると不安な気持ちでいっぱいになるものの、いま考えても仕方がないことである。今は静かに月でもながめ、あれやこれやと考えることを、少し控えよう」などと考え、静かに時を過ごしていました。 そこへ静寂を打ち破るかのように源頼政の使者だというものが、あわてふためいた様子で手紙を持って来ました。高倉宮の御乳母子の六条の亮の大夫宗信が、これを受け取り御前へ参り差し出しました。 手紙を受け取った高倉宮は、もしや、と不安に駆られ手紙を開いて見ると、「君の御謀反が残念ながら早くも露見致しました。土佐の幡多へお流し申そうというので、検非違使庁の役人どもが君の御屋敷へ向かっております。急いで御所を出発して、三井寺へお入り下さいませ。頼政もまもなく参りまする」と書かれてありました。
以仁王も自分名で出した『令旨』がもとで、よもや自分の命が狙われるなんて思ってもいませんでした。
捕まれば土佐に流される。
それも罪人として。
そして皇族の身分を剥奪されて・・・・・。
それは『死』を意味します。
月を呑気に眺めている場合じゃ有りません。
事態は急変したのです。
以仁王は、頼政からの手紙に従って屋敷を抜け出し徒歩で山を越え三井寺に逃げ込みます。
三井寺は園城寺とも言います。
歴史上はどちらも使っていますが、同じ寺です。
その様子を平家物語で見てみましょう。
王はすっかり動転してしまったが、ちょうど御所に源信連【のぶつら】という豪胆のものがいた。
「別に慌てるほどのことではありませぬ。女房の装束をして外出されるがよろしいかと存じます。」と落ち着き払っていった。髪を解き、笠を被ると当時の貴族というのはたちまち女性になってしまう。重ねてきた衣に、市女笠をかぶった。
六条助大夫宗信が大きな唐笠をもって同行した。
鶴丸という童も袋に身の回りの品物を入れて王についていった。
その格好で脱出し、高倉通りを北へと逃れたが、途中王が大きな溝をひょいと飛び越えてしまい、「はしたない女だ」周囲の人から怪しまれ、急いで足早に通りすぎるという一幕もあった。
王もまた、このような事態には不慣れであった。
以仁王は女装して逃げました。
王は30歳の成人ですが、筋骨隆々の体型ではなく、女性的な体型でした。
王に随行したのは2人です。
六条助大夫宗信【ろくじょうのすけだゆうむねのぶ】の母親は王の乳母でもあり、王とは乳兄弟の間柄です。
鶴丸【つるまる】というのは王の子供でしょう。
王には子供が何人もいます。
しかし、たまたま、屋敷にいた子供はこの鶴丸ひとりだったのでしょう。
以仁王は我が子鶴丸を引き連れて、乳兄弟の宗信とたった3人で、歩いて山越えをしたのです。
さて、頼政も自分の京の屋敷に火を放った後、三井寺にはせ参じます。
屋敷に火を付けることで、自分が今回の黒幕であることを明らかにしたのです。
『以仁王を死なせてはならない』
『何としても、清盛から逃がさねばならない』
今となっては、頼政は清盛打倒より、以仁王の命を助けることだけを考えることになりました。
しかし、以仁王が逃げ込んだ三井寺にも平家の大軍が迫ってきます。
このまま三井寺に居ては危ない。
頼政は、南都興福寺への移動を決意します。
急がねばならない。
頼政は以仁王を馬に乗せようとしました。
しかし・・・・・。
平家物語を見てみましょう。
慣れない馬に乗ったばかりか、劣勢に心痛めた宮は、三井寺から平等院に到着するまでの間に六回も落馬する有様であった。
『馴れない馬に乗った』・・・・・?。
そうなのです。
以仁王は、実は、今まで馬に乗った経験がなかったのです。
小さい時に寺に預けられ、書、笛、和琴などは習ったけれど、馬になど乗った経験が無かったのです。
だから、六回も落馬する事になったのです。
本来であれば、馬に乗って走って逃げなければなりません。
馬に乗って疾走すれば、平家の大軍は追いつかないでしょう。
しかし、馬に乗って走るなんてとんでもありません。
恐らく馬上の以仁王は馬のたてがみに必死にしがみつき、周囲の者が手綱を引き、馬を静かに歩かせたに違い有りません。
その証拠に以仁王は六回も落馬したけれども怪我ひとつしていません。
以仁王は落馬した時、周囲の家来供が必死で下で支えたのでしょう。
だから、途中の平等院で平家軍に追いつかれ、宇治川を挟んでの平家との戦いになったのです。
当時の乗り物といえば、馬か牛車です。
牛車で以仁王を逃亡させても、牛車では清盛軍は容易に発見するでしょう。
馬はダメ、牛車もダメ、頼政は頭を抱えました。
確実に王を脱出できる方法は・・・・・。
頼政は考えに考えました。
そしてようやく出した結論は・・・・・。
それは、舟だったのです。
頼政は、水軍渡辺党の頭領でもありました。
その水軍渡辺党は瀬戸内海や淀川の荷役作業も取り仕切っていました。
頼政の最後を見届け、その首を刎ねた渡辺長七唱も渡辺党の一員です。
『以仁王を舟の荷に紛れて運ぶ』
当然、王の子鶴丸も一緒にです。
これが、頼政が考えついた究極の脱出方法だったのです。
だから、瀬戸内海に通ずる淀川上流の宇治川のほとりにある平等院を戦いの場所に選びました。
宇治平等院に着くと頼政は宇治橋の橋板をはずします。
時間稼ぎをするためです。
平家物語では『宇治川にかかる橋の橋板を外し、防戦体制をとった』とあります。
頼政は数人の配下を呼び、以仁王の脱出作戦を明かします。
嫡子仲綱ら頼政一族、渡辺長七唱、清銀太郎・銀治郎兄弟ら頼政が最も信頼する連中です。
この作戦こそ、頼政の一世一代の覚悟の大作戦だったのです。
ここからは、平家物語には有りません。
私の創作です。
勿論、柿花仄氏の脱出トリックを大いに参考にしております。
頼政が考えに考え抜いた大脱出作戦です。
頼政はおもむろに口を開き、諭すように話し始めます。
以仁王は何としてもここから脱出させなければならない。
逃亡隊は4隊作る。
その内3隊は影武者隊だ。
逃走経路も4経路。
東西南北方向に散っていく。
我が軍はここで平家軍を迎え撃つ。
三井寺を出る時「我々は南都興福寺へ向かう」と言って出た。
平家軍もこの事は察知しているはずだ。
平等院内に以仁王がいないと分かれば、平家軍は先ず興福寺のある方向を追うであろう。
興福寺へ向かう南路隊の以仁王には愛用の笛『小枝』を持たせよう。
この隊は僧兵中心とする。
南路隊の王が平家に捕まり、王が偽者で有ることが知れた時は、次に平家が捜索するのは恐らく北路隊だろう。
北方向の丹波にわしらの所領地があるからだ。
この隊には武士団を付ける。
この北路隊の以仁王も偽者であることが知れた時は、次の捜索は近江源氏など源氏の仲間が多くいる東路隊だろう。
しかし、この東路隊は幻の隊とする。
平家がいくら探し回っても、元々編成されていない幻の逃亡隊だ。
平家は幻の東路隊を何日も探しまくるであろう。
本物の以仁王と鶴丸は西方を行く。
西路方面は平家方の土地だ。
平家の方に逃げるなんてよもや平家軍は誰も気付かないであろう。
以仁王と鶴丸は舟荷に紛れて運ぶ。
舟の手配は唱に委せる。
この本物隊はできる限り少人数とし、清兄弟らが同行せよ。
目的地は越後の小国だ。
そこには私の息子頼之達が居る。
必ず匿ってくれよう。
しかし、頼政はこの作戦でも不安でたまりませんでした。
百パーセント確実に本物の以仁王を清盛から逃がさねばなりません。
そこで次の驚愕の作戦を南路隊の僧兵に与えます。
平家軍は必ず南路隊を追うはずだ。
興福寺からは興福寺の僧兵が以仁王を迎えに向かっている。
南路隊がこの僧兵と合流し、以仁王が興福寺へ逃げ込むことができたとしたら、王が囮であったことが知られてしまう。
それでは、本物の以仁王の命が狙われる。
良く聞けよ。
興福寺からの僧兵達と合流する前に・・・・・平家軍に追いつかれた時に・・・・・以仁王を殺せ!
わざと平家軍に追いつかせろ。
追いついた平家軍に矢で応戦すれば敵も矢を放ってくるはずだ。
その時だ。
馬上の以仁王の腹を矢で射ろ。
馬上から王が落ちるのを敵は見るはずだ。
平家軍から放った矢が王に刺さったと見えるはずだ。
すかさず、王の首を刎ねよ。
そして王の顔の皮を刀で剥ぎ取れ。
偽物を本物と見破れなくするためだ。
王の首は王の着ていた着物でくるみ、首を守り、戦え。
そして、その場所で全員討ち死にせよ。
決して生きて捕まるな。
よいな。
至近距離から馬上の王の腹を射るのも驚愕の命令ですが、顔の皮を剥ぐのも驚きです。
『王の顔の皮を剥いだ』という根拠は南会津に伝わる言い伝えからです。
木地師はこんな残酷な発想はしないでしょうから『顔の皮を剥いだ』という言い伝えは事実だと思っています。
次に、頼政は六条助大夫宗信を呼びました。
お前は、以仁王の死と、全員討ち死にしたことを確かめよ。
逃げる僧兵がいたらお前の手で討て。
その結果を我に知らせよ。
その知らせを聞いたら、我が軍も全員打ち死しよう。
頼政の覚悟は既にできています。
頼政軍に勝機は万にひとつもないと・・・・・。
それほど平家軍は大軍だったのです。
戦いには普通、鎧・兜を付けます。
しかし、覚悟の頼政は鎧・兜は付けませんでした。
頼政は、次に北路隊の武士を呼びます。
南路隊の以仁王は平家軍によって討ち取られる事になっている。
しかし、王でないことが知れた時のために、北路隊の以仁王も途中の綾部付近で死んでもらう。
南路隊の以仁王が矢傷を負い、落馬した後、偽者とすり替わり、ここまで逃げてきたが、腹の矢傷が重く途中の綾部で命を落としたということとせよ。
それでも、頼政にはまだまだ不安でした。
本物の以仁王と鶴丸が宇治川を舟で下った事に平家軍の誰かが気づいたら全て終わりです。
一方、その頃、平家軍の方では、頼政の不安が的中するような事件が起きつつありました。
宇治川を挟んでの橋合戦が始まり、いよいよ平家の大軍が宇治川を渡ろうとするのですが水嵩が高く、渡れないのです。
そこで、平家軍の大将が河内【かわち】の方から回り込んで攻めようということになりました。
河内というのは宇治川下流の地域です。
そこには、本物の以仁王と鶴丸の乗った舟が川に浮かんでいます。
ところが、この大将の作戦を聞いた足利忠綱【あしかがただつな】という若者が猛烈に反対するのです。
しかし、若者の主張なんて、当然ながら平家軍の大将達に聞き入れてもらえません。
そこで、真っ先に自ら激流の宇治川に馬を乗り入れて川渡りを決行するのです。
有名な馬筏のくだりです。
平家物語を見てみます。
平家の侍大将が、大将軍の前に進み出た。
「橋の上での戦は劣勢にござりまする。ここは川を渡って攻め込むべきところなれど、おりしも五月雨のころ、水嵩が増していてここで渡河を決行すれば多くの人馬を失うことになりまする。ここはいったん河内へ回り込み、そこから攻めるが良策かと存じまするが、如何。」というところに、下野国から来た足利忠綱という者が猛烈に反駁した。
平家の侍大将の提案に、若輩の足利忠綱が反対したのだ。
この足利忠綱、この後も不可思議な行動を起こします。
再び、平家物語を見てみよう。
「強い馬は上方へ、弱い馬は下方へ回って川に入れ。足が底についているうちは手綱を緩めて歩かせ、馬がはね始めたら手綱を締めて泳がせよ。川の中では矢を射るな。敵が矢を射てきても応戦してはならんぞ。」と大きな声で的確に指示を出す。経験者ならではの指揮ぶりで、三百騎あまり、一騎も川の流れに失うことなく上陸に成功した。
見事である。
お気付きになられましたか?
忠綱軍は敵方に矢を放ってはいないのです。
『応戦よりも川を渡るのを優先せよ』というのなら一応理解できるが・・・・・・。
しかし・・・・・頼政軍も忠綱軍に矢を放っていないのです。
敵の三百騎が宇治川を渡り自軍に攻め込んでくるのに・・・・・です。
頼政軍からも一本も矢は放たれてはいない。
三百騎あまり、一騎も川の流れに失うことなく上陸に成功します。
なぜ?
そう。
忠綱軍は実は頼政軍だったからです。
忠綱は上陸すると大声で・・・・・。
これも又、平家物語を見てみよう。
「遠くは音にも聞け、近くは目にも見よ。昔朝敵将門を滅ぼした俵藤太秀郷の子孫、足利又太郎忠綱、生年十七歳、かように無位無官なるものが宮に弓を引くことは恐れ多きことなれども、弓やの神の加護も平家の御上にこそあれ。われと思う人は出でよ。」
若いだけに功名心にはやり、その分口上も長い。
当時の武士の本分として、自分が何の某であるかを敵に知らせて戦うことになっていた。
口上を述べた後は、当然ながら戦いに突入するはずですよね。
そのための口上です。
しかし、平家物語では、忠綱の口上後の行動は以降、何故かぷっつりと消えてしまっているのです。
平家物語を見てみよう。
平家の大軍が川を渡ってきた。
以仁王の軍勢はひっきりなしに矢を放って敵を防ごうとするが、破れるのは時間の問題である。
頼政は七十過ぎという年齢もある。
すでに左の膝頭を射られ、歩くことができなくなった。
もはやこれまでと思ったのか、平等院の奥に篭って自害しようとしたが敵が背後から次々と襲いかかってくる。
息子の兼綱が紺地の錦の直垂に唐綾威の鎧を着て、白葦毛の馬に乗り、時間を稼ごうと殿軍の戦いをしていたが、上総判官忠綱が放った矢が兜のうちに突き刺さり、そこで怯んだ一瞬の間に上総守忠清の童次郎丸という抜かりない者が押し並べて組み、二人して落馬した。
兼綱は痛手を負ったとはいえ世に聞こえた大力の持ち主で、次郎丸の動きを封じて首を掻き、立ち上がろうとするところに、敵兵十四五騎がどっと押し寄せて兼綱を討ち果たした。
平等院内では、忠綱と頼政の息子兼綱とが戦っています。
忠綱が立派に戦っているじゃないかって?
いえいえ。
注意深く読んでいただきたい。
気が付きましたか?
実は同姓同名の足利忠綱がふたりいたのです。
17歳の上野【かみつけの】の足利忠綱と、平家軍大将の上総【かずさ】の足利忠綱です。
平家物語の作者は、このふたりを連続的に登場させて、ストーリーの不自然さをカモフラージュしました。
さすがです。
有名な作家の吉川栄治氏は、彼の著作の『平家物語』でこの矛盾に気付き、同一人物として書き直しています。しかし、元の平家物語の方が正しいのです。
次は六条助大夫宗信のくだりです。
これも又、平家物語を見てみましょう。
家来のひとりで六条助大夫宗信という男が、敵は後から後から続いてくる、馬の葦は弱いしで、敵を避けて付近の池に飛び込み浮草で顔を隠して伏せていた。
おそろしさに身体はぶるぶると震えていたが、しばらくすると戦いが終わったようで兵士たちがにぎやかに話ながら宗信の前を通りすぎた。
(あれは宮ではないか)
兵士たちが浄衣を着た首のない死体を引きずっていく。
その死体の腰に差した笛はまぎれもなく小枝であった。
「私が死んだら、この笛も一緒に棺に入れよ。」と宮が語っていた笛である。
宗信は母が宮の乳母であり、宮とは乳兄弟であった。
いまにも死体にとりすがりたい衝動を恐怖が押え込んだ。
その場から敵が去ってしまった後、濡れた衣服を絞って着て泣く泣く京へと帰った。
都では恩知らずとして、人々から激しく誹られた。
王とは乳兄弟である宗信がこんなにも情けない人物なんて、不自然だと思いませんか。
南路隊の以仁王の護衛の一員として頼政が選んだんでしょ。
肝心な時に『おそろしさに身体はぶるぶると震える』様な人物を頼政が選ぶはずがないではありませんか。
柿花仄氏も指摘していますが、私も、この宗信こそ頼政から、『偽の以仁王が討たれ、平家によって運ばれたこと』を確認し頼政に伝える重大な使命を受けた人物だったと見ています。
最後に以仁王が殺された場面です。
これも平家物語ではどのように語っているのでしょうか。
しかし以仁王も無事ではなかった。
この戦闘に紛れて奈良へ落ちて行くのではないかと思い付いた平家の飛騨守景家は、五百騎余りを率いて宇治橋での激戦をよそに街道を封じに走った。
案の定以仁王は三十騎ほどで落ちていた。
光明山の鳥居の前で追い付き、雨が降るかのように矢を射かけた。
誰が放ったかまではわからないが、そのうちの一本が馬上の宮の脇腹を射た。
宮が落馬したところに敵兵が群がり首級を挙げた。
供をしていた荒土佐、律成房伊賀公、法輪院の鬼佐渡、金光院の六天狗と呼ばれた式部、大輔、能登、加賀、佐渡、備後、それに刑部春秀などはみな、もはや命を惜しむこともなくなったと、叫びながら敵中に突撃し、討ち死にした。
平家物語の作者は、矢は『誰が放ったかまではわからない』と表現しました。
当然、ストーリーからは、平家の飛騨守景家【ひだのかみかげいえ】軍から放たれた矢と解釈するでしょう。
平家物語の作者は、知っていました。
知っているからこそ、正確に史実に従って物語を展開します。
『誰が放ったかまではわからない』として・・・・・。
頼政の命令どおり、至近距離から誰かが以仁王の脇腹を射抜いたのです・・・・・。
それよりも、馬に乗れない以仁王が馬に乗っているって?
馬にしがみついていたら、平家軍からの矢は脇腹には当たらないよね。
しかし供をしていた僧兵達、見事です。
『もはや命を惜しむこともなくなったと、叫びながら敵中に突撃し、全員討ち死にした』とは・・・・・。
僧兵達は、以仁王の首を刎ねた後は、それこそ『命を惜しむこともなくなった』のです。
頼政の作戦命令通り全員討ち死にしました。
この以仁王が囮である証拠がもうひとつあります。
鶴丸です。
南路隊に鶴丸が同行していないのです。
本物の以仁王なら同行者に息子の鶴丸がいなくちゃならないのです。
さて、北路隊の方はどうなったのかを説明します。
綾部市高倉神社のホームページに北路隊が出てきます。
御祭神 本社以仁王(もちひとおう)末社皇大神宮天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)八坂神社素盞嗚尊(すさのおのみこと)金比羅神社大物主命(おおものぬしのみこと)稲荷神社宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)天満宮菅原道真(すがわらのみちざね)十二士神社近臣十二士(きんしんじゅうにし)伊弉諾神社伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)大地主神社大地主神(おおじぬしのかみ) 由緒等: 高倉神社は、後白河天皇の皇子高倉宮以仁王を祭神とす。平安時代の末期、平清盛を始め、平氏の一族は、 朝廷に対し横暴と不敬の限りをつくしはばからず、この専横を見るにしのびず源三位頼政は以仁王の令旨を奉じ、 治承四年勤皇の兵を挙げたが、莵道の激戦に宮方の軍に利あらず、頼政宇治平等院で戦死。この時、以仁王流矢に当たり、 薨去と偽り近臣大槻光頼、渡辺俊久等十二士を従え、頼政の領地丹波に落ち延びる。
由良川白瀬を渡り吉美郷里村までお着きになったが御矢疵重く、治承四年五月九日この地で薨去。 養和元年九月九日神霊をこの地高倉の森に遷し、高倉天一大明神として奉祀す。
綾部市高倉神社のホームページによれば、北路隊の以仁王も現綾部市内で死んでいます。
頼政の作戦通り、味方の武士団に殺されたのです。
キーワードは『流れ矢』です。
南路隊の以仁王も『流れ矢』で命を落とします。
北路隊の以仁王も同じように『流れ矢』の傷で命を落とします。
綾部では、以仁王の死は、村人達に確認させています。
後々まで、以仁王はこの綾部にて、亡くなったと伝わっています。
そして、村人達はここ綾部に高倉神社を建てました。
御祭神は勿論『以仁王』です。
しかしながら、清盛は第一の囮、南路隊で死んだ以仁王を本物としました。
南路隊の以仁王が命を落とした光明山の鳥居が有った場所にも、高倉神社が有ります。
この高倉神社は宮内庁が管理しています。
しかし、この高倉神社の御祭神は『以仁王』では有りません。
この結果、頼政の大作戦は成功し、以仁王はまんまと京からの脱出に成功したのです。
宇治川を真っ先に渡り、敵の陣内に討ち入った足利忠綱について、もう少し述べてみます。
平家物語では、宇治川を挟んだ戦いに突如、若輩の17歳として平家軍の大将達を押しのけて登場します。
この足利忠綱は足利又太郎忠綱といい、歴史上はそれなりの人物です。
足利忠綱【あしかがただつな】、(長寛2年(1164年)? - 没年不明)は、平安時代末期の武将。下野の藤姓足利氏・足利俊綱の子。通称は又太郎。幼名は王法師。治承・寿永の乱において、平家方について戦った猛将。
敵対した側(後の鎌倉幕府)の歴史書である『吾妻鏡』は、忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。
生涯
治承4年(1180年)、平清盛を討伐するため、以仁王の令旨を奉じて源頼政らが挙兵。
同じ下野の同族小山氏が王の令旨を受けたのに対し、足利氏は受けなかったのを恥辱に感じ、清盛方に加勢。ただちに一門を率いて上洛し、頼政らを攻めた。
このとき忠綱は、17歳であったというが、宇治川の戦いで先陣として堂々たる名乗りを上げ、将兵の渡河をうながし、合戦を勝利に導くという勲功を挙げた(頼政は討死)。
このことにより大いに武名が高まったため、恩賞として父・俊綱以来の宿願である上野国十六郡の大介職と新田荘を平清盛に請求した。
清盛はこの申し入れを受け入れるが、忠綱の郎党が恩賞は一門で等しく配分すべきであると清盛に抗議したため、わずか数時間で撤回されたという。
巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて、嘲笑されたと伝えられる(以上、『源平盛衰記』)
上記の説明文はWikipediaからですが、いくつかの気になる説明がなされています。
1点目 忠綱は本来、『令旨』を受け取る源氏側にいたことです。
『下野の同族小山氏が王の令旨を受けたのに対し、足利氏は受けなかったのを恥辱に感じ、清盛方に加勢した』と説明がされています。
これで、忠綱が平家軍にいた理由は分かりました。
2点目 宇治川の戦いで平家軍の目の前で、真っ先に渡河を果たし、戦いを勝利に導いたわけですから褒美を要求するのは当然です。
清盛も一旦は認めました。
しかし、3時間後恩賞は撤回されました。更には「午介」というあだ名で嘲笑されています。
『恩賞は一門で等しく配分されるべき』との抗議も何のことか分かりかねますが、要は内部分裂ですね。
そして、内部告発です。
一番乗りは果たしたけれど、手柄は何一つ立てていない。
理由は、先に述べたとおりです。
平家物語に戦後処理の説明があります。
戦後処理としての論功行賞は比較的淡々と進んでいきました。
とはいってもこの論功行賞は平家の得手勝手なものでした。
高倉宮以仁王がご謀叛の間、怨敵退散の調伏を行なっていた高僧たちには褒賞が贈られました。
また、前右大将宗盛の子息で侍従清宗は三位に叙され、三位侍従と呼ばれました。
今年やっと数えで十二歳になったばかりの若さで、父宗盛すら十二歳のときには兵衛佐でしかなかったのですが、これほど若くして公卿に名を連ねるのは、摂関家以外には例がありません。
除目の但し書には、「源茂仁(みなもとのもちひと)・頼政法師父子追討の賞」と書かれてありました。
源茂仁とは、以仁王のことであります。
正真正銘の太上法皇(後白河法皇)の皇子を、お討ち果たすことでさえとんでもないことであるのに、それを臣下にまでお降ろしし、一般人扱いするとは、全く気が知れないことであります。
平家物語では、忠綱の平等院一番乗りを有名な馬筏として語らせているのに、戦後処理には何も有りません。
まあ、当然といえば当然なのですが・・・・・。
南会津に残る言い伝えには、『以仁王は足利又太郎忠綱によって助けられた』とあります。
柿花仄氏は『南路隊で殺された以仁王は忠綱の配下の若者ではないか………』という可能性を説明しています(小国町発行 まんが)
しかしそれだと、以仁王は光明山付近ですり替わったことになり、すり替わった後の逃亡経路の説明が難しくなります。
忠綱が以仁王を会津の言い伝えの様に直接助けたとなればどこかに王との接点がなければなりません。
宇治川を渡り平等院に討ち入った時にまだ以仁王が院内に居て、そこで何か助けることが有ったのか、既に興福寺に向けて出発していたのであれば追いかけて何か助けたのかです。
私は、接点が何もなくても以仁王を助ける事象を見いだしました。
それは、宇治川の戦いで平家の大将が河内から攻めようとの提案に反対し、忠綱が真っ先に川を渡り始めたことなのです。
この事によって、以仁王は無事宇治川を下ることができたのです。
頼政が以仁王を舟で逃がそうと思いついたのが三井寺から平等院までの道中だと思っています。
6回も馬から落ちそうになったのがきっかけです。
であれば、この短い間に、忠綱と頼政軍の誰かとが接触する必要があります。
しかし、どう考えてもそんな時間があったとは考えづらいのです。
これが私の案の最大の欠陥です。
忠綱は以仁王が川を下ったことは知らなかった。
しかし、真っ先に川を渡ったことが結果的には以仁王の逃亡を助けることになった。
平等院内で忠綱は頼政と面会します。
頼政軍に加担するためです。
しかし、頼政は今回の犠牲は我が一族だけで良いと忠綱を諭します。
余りにも平家軍が多く、勝敗は目に見えているからです。
頼政は忠綱に静かに戦場から消えるよう促します。
忠綱は頼政の忠告を聞き入れ、戦場を後にします。
言い訳としては「以仁王一行を追った」とでもしたのであろうか。
王一行の宇治平等院から沼田までの逃亡経路は、南会津の言い伝えでは、『東海道に沿って』としか伝えられていません。
言い伝えの出発地は沼田であるかのように伝えられています。
そして、沼田からは渡辺長七唱が同行しています。
宇治平等院からは、本物の以仁王一行は宇治川を下ります。
一方、唱は頼政自刃の後に頼政の首を刎ね、その首を宇治川の淵に沈めた後(平家物語)、戦場を離れました。
以仁王が宇治川を下り始めてから相当の時間が経過しています。
唱は頼政から以仁王の同行を命令されています。
さて、唱はどちらに逃げるべきなのでしょうか。
淀川を下る西路か琵琶湖に沿って東海道を行く東路かです。
西路を目指し、もし平家軍に発見されたら、以仁王一行が西路を下ったことがばれてしまいます。
逆に東路で捕まったとしても、以仁王は安全です。
だから、唱は東路を逃亡経路に選びました。
当然の選択でした。
ならば、何故南会津の村人に「以仁王は宇治川、淀川を下った」といわなかったのでしょうか。
それは、瀬戸内や淀川で生活をしている一族の渡辺党に清盛からの危害が及ぶのを怖れたからではないでしょうか。
唱が東海道を逃げてきたと言えばそれも又真実なのです。
残酷なお話をします。
戦いに敗れ殺された武将の首の話です。
この当時の戦いでは、勝つと敵大将の首を刎ね、その首を自軍に持ち帰り、誰の首なのかを首実検にかけます。
そこで認められて初めて清盛から褒賞が頂けるのです。
だから、敵大将の首は貴重な戦利品なのです。
刎ねた首はどのように持ち帰るのでしょうか。
平家物語で見てみましょう。
討ち取った敵兵の首を太刀や長刀に貫き刺し、それを高々とかかげて夕方には六波羅に入った。
行列に加わった侍たちの口汚さと内容は、恐ろしいなどという言葉では言い表せないほどであった。
このように、太刀や長刀に首を貫き通して、高々と掲げて喚き散らしながら帰って来るというのです。
首実検にかけられた首は、その後どうなるのでしょうか。
これも又残酷なものです。
町中の首のさらし場に何日も放置されるのです。
野良犬や烏の餌となるのです。
それも、罪人としてです。
しかし、頼政は自分の首がこのように罪人として市中に曝されることがいやでたまりません。
しかも、頼政はこの平等院での戦いに自軍に勝ち目は全く無いことは既に覚悟していました。
そこで最も信頼する臣下の唱に「我が首を刎ねよ」と命令したのです。
首を刎ね、その「首は清盛軍の手に絶対に渡らないようにせよ」という意味です。
このような首領頼政からの命令を受けた唱は、果たして頼政の首を宇治川の淵に沈めるでしょうか。
首をふちに沈めた後、自分だけ戦場を離れることができるでしょうか?
謀反の張本人である頼政の首がないとしたら、清盛は川底はおろか平等院の隅から隅まで探すでしょう。
頼政の首無し死体は平等院内に転がっています。
首だけがないのですから。
平家軍の捜索の結果、宇治川の深い淵から赤い血に染まった頼政の装束にくるまれた石ころが発見されました。
肝心の首は、発見できませんでした。
そのため、『頼政の首は介錯人の唱が宇治川の淵に沈めた』という平家物語の筋書きになったのではないかと思われます。
総大将の頼政、その嫡子仲綱等が平等院内で戦死してしまいます。
残った源氏方の兵士は戦場を逃げ出します。
自害した仲綱の首を床下に隠した下河辺藤三郎清親【しもこうべとうざぶろうきよちか】の下河辺一族や生き残った渡辺党等です。
仲綱については、『実は平等院から逃げて途中から以仁王一行に加わった』との言い伝えも越後下田に有りますが、平家物語では『頼政の首以外は全て発見された』としていますから、仲綱が平等院で自刃したのは間違いないでしょう。
さて、頼政の首ですが、茨城県の古河市の頼政神社に『頼政の首は下河辺一族の誰かが持ち帰り奉納した』との言い伝えがあります。
勿論、頼政神社の御祭神は頼政です。
頼政の首が運ばれた経路は西路の水上ではなく東路でしょう。
首は塩漬けにされた首桶で運ばれました。
当然、馬に乗っての逃亡です。
首を持って逃げたのは唱と下河辺氏の一団でした。
しかし、東路陸上経路であればどこかに頼政の首に関する足跡が残ります。
有りました。
岐阜県関市の蓮華寺【れんげじ】に頼政の首が奉納されていました。
岐阜県関市の蓮華寺に身を寄せ首を奉納した後、唱等一行は再び頼政の首を携えて寺を出発しました。
次の目的地は駿河【するが】安倍川沿いの八条院領です。
ここが以仁王との最初の合流地点なのです。
ここを、最初の目的地に選んだ理由は、今後の逃亡資金の調達でした。
八条院領で、以仁王と合流した唱一行は、更に、安倍川を奥に入り途中から刈安峠を経て甲斐国【かいのくに】本郷(南部町)に到着します。
そこには、現在、若宮八幡宮があり、その床下には以仁王が眠っておられると言われています。
望月清蔵著『以仁王の御廟所とその令旨』によれば、以仁王の逃亡経路について次のように述べられています。
京都より船で琵琶湖を渡り、美濃の国に至り、東海道を駿河国に下向、安倍川の下流八条院領服職荘に至り、これを更に奥方、即ち阿部川の上流に向かわれた。しかして甲斐国との国境安倍嶺(刈安峠)を越えられ甲斐国巨摩郡西河内領成島村に下着、南部三郎光行公の御奉迎をうける
また、別項に
三井寺を出た後、瀬田の川尻に出る途中、密かに琵琶湖畔に抜け出て対岸天野川の川口付近に渡り・・・・
とあり、本物の以仁王は宇治平等院には入らなかったとしています。
藤原兼実の日記『玉葉』に『王は駿河にいて、奥に向かった』とのうわさが書かれていますから、間違いなく以仁王は駿河にいたのでしょうが、三井寺を出発した後、途中から以仁王を琵琶湖に逃がし、頼政軍は平等院で清盛軍を迎え撃つという行動は、理解に窮します。
琵琶湖に逃がすことが以仁王を確実に安全に逃がす作戦とはどう考えても思えないのです。
それに、南都興隆寺へ向かった囮作戦、更にその囮とすり替わり、綾部まで逃げた第二の以仁王の囮作戦の理屈が立たないのです。
また、瀬田から琵琶湖へ本物の王が舟で逃げたとしたら、足利又太郎忠綱が王を助けた接点が全く見いだせないのです。
従って、やはり以仁王は、宇治川を鶴丸と共に舟荷にまぎれて運び、太平洋から安倍川を上り、首を携えた唱一行と駿河で合流したと思われます。
また、以仁王はこの南部町で亡くなり、位牌が若宮八幡宮に収められていますが、亡くなった理由は『傷病で』『傷付きて』となっており、光明山鳥居の前や綾部での死亡理由に何故か似ているのです。
瀬田から舟に乗れば、傷は負わないと思うのですが?
ともかく、宇治川を舟で下った以仁王一行と、東海道を馬で駆け抜けた唱は駿河八条院領服職荘で合流し、更に山を越えて南部町本郷へ到着しました。
唱が一行に加わると、一行の総指揮は唱になります。
改めて、頼政からの指令である越後の小国に向けての出発です。
越後まで、どのルートで行くか、それが問題となります。
陸上による最短ルートか。
それとも・・・・・。
陸路では以仁王一行が滞在するとすぐに噂が立ちます。
周囲の護衛する武士の雰囲気から村人たちに察知されてしまいます。
王の言葉づかいや服装、王への対応の仕方、食事、作法等々から、宿泊した家の人々に、特別の人であることは自然と知れてしまいます。
そして、その噂が都に伝わっていきます。
その証拠として、九条兼実の日記『玉葉』に、『以仁王は生きて甲斐にいるとの噂がある』と書かれてしまいました。
唱は再び海上ルートを選びました。
富士川を下り太平洋に出て利根川河口まで行き、そこから利根川を上り、行けるところまで行き、沼田から尾瀬に入りそこから小国を目指すのです。
当時の利根川の河口は、現在とは異なり、東京湾に流れ込んでいました。
利根川を上っていく途中に古河が有ります。
頼政の首を持った下河辺一団は古河を目指しています。
もしかしたら、頼政の首も甲斐からの海上ルートで運んだという可能性も否定できません。
海上ルートだと、頼朝のいる鎌倉や伊豆の直ぐ傍を通ります。
何故、唱は頼朝のところに逃げ込まなかったのか、大いに疑問が残ります。
以仁王は既にこの世にいないことになっています。
以仁王がこの世にいないと清盛に思わせている限り以仁王の身の安全は保障されます。
令旨を受け取ったと思われる東国の頼朝を初めとする源氏の動きはこの時点では唱には分かりません。
頼朝のところに逃げ込めば、以仁王が生きていることが明らかになり、再び王の身が危険に曝されます。
恐らくこのような理由で、頼朝を素通りし、頼政の指示に従い越後の小国を目指し利根川を遡ることにしたのでしょう。
さて、一行は利根川を舟で行けるところまで行った王一行は、最上流の沼田で舟を降り、尾瀬に向かいました。
人が殆ど住んでいない尾瀬の山道。
陸上部では、このルートが最も安全なのです。
ようやく、以仁王一行は尾瀬までたどり着きました。
尾瀬から越後へ、平等院から尾瀬への道程に比べれば、越後小国は直ぐ近くです。
しかし、一行は、直接越後へのルートを取らず、尾瀬から南会津檜枝岐【ひのえまた】へ向かいました。
そして、南会津では不思議な迷走をします。
1回目は柳津【やないづ】へ抜けようとしますが、柳津の不穏な動きの噂を聞き引き返します。
2回目は大内【おおうち】から氷玉峠【ひたまとうげ】を越え福島に出ようとしますが、石川の冠者有光【ありみつ】と戦いになり再び引き返します。
結局は叶津【かのうづ】から八十里越えで下田、加茂経由で目的地である越後小国に入るのです。
しかし、何故か一行は、頼政から指示された目的地の小国を再び離れ、東蒲原【ひがしかんばら】の上川小川庄に移りました。
何故、唱は南会津から柳津や福島の方に抜けようとしたのでしょうか。
インターネットからヒントを見つけました。
渡辺党の拠点は渡辺津【わたなべのつ】(今の大阪河口部)と古河【こが】と小川庄【おがわのしょう】であるというのです。
なんと、上川の中山集落のある小川庄は渡辺党の拠点のひとつだったのです。
話を尾瀬にまで戻します。
尾瀬に入った王一行は、尾瀬から只見川を下り途中から山越えをして魚沼から小国に入る最短ルートを目指しました。
そのために尾瀬に入ったのですから。
しかし、魚沼へは、山は険しく山道は有りません。
そこで誰かをルート探索に出したのでしょう。
これが魚沼に伝わる「尾瀬三郎物語」なのです。
尾瀬に一行が到着し、ここから誰かを越後へのルート探索に出したとすれば、探索隊が戻るまでの数日間、一行が尾瀬に留まる必要があります。
沼田から尾瀬に入ってからの一行の南会津における言い伝えに、「長旅の疲れを癒すため一行は8日間尾瀬で休息を取られた」というのを見つけました。
沼田までは舟に乗ってきてようやく陸路で目的地を目指そうとしているのに・・・・・何にもない尾瀬で無駄に8日間も休息を取るなんてあり得ません。
間違いなく探索隊が戻るまでの待機でしょう。
8日間待って、ようやく探索隊は疲れ果てて一行の待つ尾瀬に戻ってきました。
探索隊は、越後への山越えルートがとても王の足では越えられそうもないことを報告します。
やむなく、唱はこの魚沼へのルートを諦め、新ルートを檜枝岐に取りました。
この段階で、唱は、一旦は渡辺党の拠点の小川庄に以仁王をお連れし、そこから再び小国を目指そうとしたのではないかと思われます。
唱は頼朝を回避したのと同じく、小国の頼之についても、本当に以仁王の安全が保証されるのか疑問に思ったのかも知れません。
南会津での何となくだらだらした逃亡の様子は、唱の心の迷いが原因ではないかと思われます。
唱は、途中、一旦は柳津からの小川庄を目指しますが、柳津方面の不穏な動きを察知するとさっさと引き返します。
次に大内集落からの峠越えを目指しますが、峠付近で石川の冠者有光と戦いになります。
たまたま天候が急変し大きな氷が降ってきて運よく峠から引き返すことに成功します。
この峠名は氷玉峠と呼ばれています。
この事で唱は福島経由小川庄行きをようやく諦め、西に進路を取り、叶津からの八十里越えで直接小国に行くことになったのです。
最近になって(それでも十年位前)新潟県長岡市旧小国町の旧家から二本の巻物が発見されました。
この巻物の解読を柿花仄氏に依頼しました。
どうやら、この2本の巻物には以仁王の事が書いてあるようです。
詳しくは柿花仄著「皇子・逃亡伝説」を読んで見てください。
巻物には以仁王は小国を出発したと書いてあります。
しかし、小川庄に向かってではなく『熊野に向けて出発した』と書かれていたそうです。
私達は、以仁王の命を助けるため、巻物に嘘の行き先を書いたと解釈しています。
何故なら熊野には以仁王の言い伝えは皆無です。
逆に、東蒲原の上川周辺には以仁王の遺跡は多く存在しています。
このように、唱等以仁王一行は、八十里越を経由することにより、頼政からの指示通り一旦は越後の小国に到着しました。
しかし何故か再び小国から上川へ旅発つことになりました。
何故でしょうか?
頼政が以仁王に『令旨』を書かせる前までは、頼政一族は平家方に属していました。
『平家追討の令旨』の謀反が清盛に伝えられた時も、頼政一族は平家方と見なされています。
頼政が、京の屋敷に火を放ち三井寺に逃げ込んだ時から、頼政一族は平家の敵方に変わりました。
越後においては、小国氏は頼政が頭領であり、平家方です。
越後の北方に領土を持つ城氏も平家方です。
従って、この時の越後国内は、大きな争いもなく平穏でした。
頼政が以仁王の乱を起こしたとしても、それは京の都に起きた乱であって、小国城主が、「謀反を起こした頼政に味方する」と宣言しない限り今までの平穏な状態が続きます。
ところが、小国領に以仁王が逃げ込み王を匿ったとなれば、状況は一変します。
清盛追討の令旨を書いた以仁王が小国城に入ったことが城氏に知れた時を境に城氏と敵味方になるのです。
小国氏と城氏の兵力は、城氏の方が上の様です。
もしも、城氏と戦いになれば、小国氏は不利になります。
即ち、小国氏にとって、以仁王は好まざる客だったのです。
唱もこれらの事情は当然感じていました。
だからこそ、南会津で迷っていたのです。
南会津における唱の率いる王一行の行動をもう一度見てみましょう。
尾瀬までは到着したが、このまま真っ直ぐ小国に行くべきか、それとも、一旦は渡辺党の拠点である上川小川庄に王を匿い、しばらく様子を見るべきか………。
尾瀬から南会津に入ってからの以仁王一行の行動が、何となくのんびりしているのがこの迷いを表しています。
唐倉山の石柱を見るために山に登ったり、進路を大きく迂回したり・・・・・。
とても、目的地である越後小国をまっしぐらに目指した行動とは思えません。
そうです。
唱は心底迷っていたのです。
檜枝岐を初めとする南会津の地域は山の又山奥です。
ここは平家や源氏の統治が及ばない程の奥地なのです。
だから、この土地にいる限り、王の身の安全は保証されているのです。
しかし、いつまでも山の民の世話を受けるわけにはいきません。
唱は迷いながらも唱の拠点地である小川庄への南会津からの脱出口を模索していたのです。
しかし、氷玉峠での戦いの結果、やむなく、唱は八十里越えによる直接越後小国への道を選択せざるを得ませんでした。
小国には、ようやく到着したものの、招かれざる客となった以仁王は再び小川庄へ向けて出発せざるを得ないこととなったのです。
当時の越後平野は、信濃川と阿賀野川が内陸部で繋がっていました。
小国領からはこれまでと同じく舟を利用することで誰に気づかれることなく小川庄に到着できました。
小川庄に着いた以仁王一行は中山の地に居を構えます。
敵の襲来に備えて、城郭や館を整備します。
南会津の言い伝えには『以仁王は小川庄でまもなく亡くなった』とか、『八十歳近くまで生き延びた』という二通りの言い伝えがあるそうです。
私は、『以仁王は小川庄に着いてまもなく亡くなったことにして、八十歳近くまで生き延びた』と思っています。
何故って、以仁王が死亡したと噂を流す方が王の安全が保障されるからです。
この方法は、以仁王の逃亡を成功させる常套手段です。
東蒲原郡には以仁王に関する城郭や館が数多く存在します。
以仁王が生きているからこそ、いくつもの城郭や館を整備する必要が有ったのです。
一年や二年では、あれほど多くの城郭や館を整備できません。
そして、以仁王を守ってきた、清兄弟や猪早太勝吉(途中の古河から合流か?)、唱等がこの地に住み着き今でも彼等の子孫が現東蒲原郡阿賀町に生存しているからです。
では、以仁王の従者に、それらしい人物はいないのか?
『○○三郎』と言われる人物はいないのか?
『尾瀬三郎物語の謎を解く』の最後の謎に挑みます。
即ち、『尾瀬三郎』の正体は誰か?です。
会津の言い伝えの中に従者として三人の公家が登場しますが、尾瀬中納言頼実、三河少将光明、小椋少将定信等の公家は、柳田國男の主張通り木地師によって作り上げられた人物だろうと思います。
乙部左衛門佐源重頼も、しかりです。
頼政の嫡男、伊豆守仲綱は平等院で確実に戦死していますから、仲綱も従者では無いと思われます。
会津に伝わっている言い伝えの従者から、これらの、さも怪しい人物を消していきます。
中山集落の御廟山の麓に、清野さん達が守ってきた先祖のお墓があります。
清銀太郎、清銀次郎のふたりのお墓です。
以仁王が眠っている場所がこの御廟山であるとしたら、このふたりの兄弟は間違いなく従者であろうと思っています。
御廟山の頂上付近に、以仁王のお墓といわれる『首塚・胴塚』がありますが、これは、お墓の形から柳田国男の主張通り、後年、木地師の中の石工が作ったものと思われます。
以仁王のお墓は、御廟山そのもの、これが私の見解です。
それでは、『尾瀬三郎』とは誰か?
従者には銀太郎、銀次郎がたしかにいました。
それじゃ、銀三郎はいなかったのか?
宮城三平が著述した『高倉宮以仁王御墳墓考』の中に、『東村山の旧記会陽小川風土記及び諸所の古跡村民口碑に伝わることを下に掲げる』として、『・・・・・・略・・・・・・御供には伊豆守仲綱、乙部左衛門尉重頼、渡辺唱、猪隼太、清銀太郎貞永、同次郎、同三郎、其の他六位士一三人の外、西方院寂了信楽らが山を越え・・・・・・会津郡に入った』とありました。
ようやく、三郎を見つけ出しました。
木地師が、自由に山の木を切るために、公家達を物語に参加させるメリットはありますが、清兄弟に、三郎を追加するメリットは全く無いでしょう。
宇治平等院での戦いの最中に、平等院を抜け出し、宇治川を密かに下ったのは、この以仁王と鶴丸と清三兄弟の銀太郎、銀次郎、銀三郎だったのです。
渡辺唱は、頼政の首を刎ねた後、東海道ルートで、途中の駿河から、合流します。
古河からは猪早太も合流します。
尾瀬に入ったときの一行のメンバーは、王と鶴丸、渡辺唱、猪早太、清三兄弟とが主力。その他、名前の伝わっていない武士達数人、と荷役と案内役の村人数人でしょう。
そして、唱は、尾瀬から越後へのルート探索に清三兄弟の末っ子である最も若い三郎を選んだのです。
ルート探索は、三郎ひとりでは不可能です。
山の地理に詳しい、村人ひとりかふたりが同行したでしょう。
王一行は、三郎をルート探索に出した後、帰ってくるまで尾瀬で待機します。
三郎達は8日間でルート探索を終え、疲れ果てて尾瀬に帰ってきました。
尾瀬三郎物語、後半の説明部分です。
尾瀬三郎は……中略………越後へ流された。
数名の従者を連れて湯ノ谷の山に分け入った三郎が、やがて道が険しくなり、馬から下りて歩き始めたところが、現在の湯之谷村の折立で、あまりの難路に、三郎一行があたりの木々の枝を折々超えたのが、枝折峠(しおりとうげ)だという。
苦難の末に尾瀬にたどり着いた三郎は、燧ヶ岳山麓の岩窟を住処として、都への帰還を画策していたが志ならず尾瀬で果てた。
三郎は、以仁王を連れて再び戻ってくると言って、尾瀬に向け藪神庄を立ちました。
しかし、いつまで経っても、三郎は藪神庄には戻っては来ませんでした。
村人は「きっと、三郎は、尾瀬で死んだに違いない」と思いました。
そのため、尾瀬三郎物語の結末は「苦難の末に尾瀬にたどり着いた三郎は、燧ヶ岳山麓の岩窟を住処として、都への帰還を画策していたが志ならず尾瀬で果てた」となったのです。
三郎一行は、尾瀬を立った後、8日間で、以仁王の待つ尾瀬に再びたどり着きました。
三郎は、越後へのルートの報告を唱にします。
以仁王が越えるには、枝折峠越えがとんでもない苦難の行程であること。
勿論道は全くないこと。
報告を聞いた唱は、越後への枝折峠越えルートは諦めざるをえませんでした。
一行は、沼山峠越えの檜枝岐ルートへ変更したのです。
だから、薮神庄へは戻らなかったのです。
宮城三平の『高倉宮以仁王御墳墓考』に三兄弟が記述されていました。
中山には清銀太郎貞永之に居て警護す。
清銀次郎貞行は室谷村に住して警護す。子孫室谷にあり。
清銀三郎貞方は□沢村に居住して警護す。
『三郎』という名は、会津、越後の言い伝えの中には、この清銀三郎貞方以外見あたりません。
尾瀬三郎とは実は、清銀三郎貞方だったのではないか。
これが、『尾瀬三郎物語の謎を解く』の最後の謎解きの回答なのです。
新潟県三条市旧下田村の古い資料として『嵐渓史【らんけいし】』があり、そこに、高倉宮以仁王が記述されています。
この漢文は難しくて手が出ません。
しかし、漢文の中に治承四年・高倉王・頼政・平等院・仲綱・宇治板橋・敵將忠綱・平氏・叶津村・八十里越・御所平などの文字が読み取れます。
明らかに、治承四年の以仁王の乱の事を記していることが分かります。
そして、高倉宮以仁王は叶津村から八十里越えで下田に来たことも読み取れます。
この他の資料、例えば三条市史にも高倉宮以仁王のことが書かれていました。
しかし、いずれも伝説・言い伝えの域を出ていません。
以仁王が叶津から八十里越えを決行し、吉ヶ平【よしがひら】集落に宿泊したという事も知りました。
しかし、この吉ヶ平集落は昭和45年に廃村になっています。
吉ヶ平集落の村人は、山奥での苦しい生活に見切りを付けたのです。
村人は廃村の記念にいくつかの資料を残しました。
三条市立図書館に村人が纏めた資料が有りました。
「集落から雨生池【まおいがいけ】に行く途中に伊豆守仲綱公墓が有り高倉宮が仲綱と共にここを通ったなんて言う言い伝えもあるが、村の人達は誰も信じちゃいない。きっと誰かが勝手に言い伝えたものじゃろう」
と言うことが書かれていました。
また、「集落の中にに ”京塚” というのがあり、これは本当は ”経塚” だろうと言っているが何の”経塚”なのか分からない」とも記されていました。
その内、長岡市旧小国町で『もちひとまつり』が開催されていることを知りました。
もちひとまつりは『柿花仄氏の皇子・逃亡伝説』を基にしたことも知ることになります。
早速、“皇子・逃亡伝説” を読みました。
なんと、そこには日本の歴史を覆す事が書かれていました。
しかし、まだ、私の頭の中では “以仁王逃亡伝説” は、『伝説・言い伝え』の域を出ていませんでした。
旧下田村には『大蛇まつり』があります。
『大蛇まつり』は下田の “雨生池の大蛇伝説” を基に始めたものです。
その “雨生池の大蛇伝説” のいわれを聞き「あれっ」と思いました。
平家物語の中の『緒環の章・緒方三郎惟栄の大蛇伝説』にそっくりだったのです。
旧下田村の人々は、このことにはまだ気づいていないようです。
平家物語で語られている『緒環』が、何故、こんな下田の山奥に、そっくりの “大蛇伝説” として伝えられているのか?
もしかしたら、『緒環』の大蛇伝説を伝えたのは、以仁王一行だったのではないのか? “以仁王逃亡伝説” は史実だったのでは?
こんな風に少しずつ疑問が涌いてきたのです。
八十里越えの山中には以仁王にちなんだと思われる地名が多く存在しています。
御所平・桜窟・御所清水・番屋山・猿楽などです。
地名は、人がそこを通ったからといってその人にちなんだ名前を付けるなんてことは一般的には無いでしょう。
しかし、それが“皇族の方”だったとしたら、別のようです。
という訳で、この他に、高倉宮以仁王にちなんだ名称がこの土地に無いのか探し始めました。
旧下田村笠堀の奥に“光明山”という信仰の山があります。
“光明山”という名称は以仁王が京都で清盛軍に殺された場所の地名でした。
三条市史に依れば、何故『三条市』と言うのか?これがどうもハッキリしないそうです。
川筋が3条(信濃川・中之口川・五十嵐川)、産業の生まれた所から『産所→三条』、三条左右衛門が住んでいたから等々結局は分からないと結論づけています。
南会津の村々には以仁王の伝説・言い伝えが数多くあります。
インターネット、書籍をできる限り読みあさりました。
“宮が床に伏せったから宮床” ”宮を安んじた清水を安宮清水” ”御所橋” に “高倉清水” 等々、南会津の王の通った村々には多くの王にちなんで付けられたとする名称が有ります。
しかし、そうであっても、結論は99%以上が以仁王逃亡伝説を単なる『伝説・言い伝え』として捉えています。
「絶対に史実だ」と言うのは数人。
アカミノアブラチャン発見者吉津愛一郎さんや元只見町長長谷部大作さん等が伝説ではなく史実であると信じていることを知りました。
南会津の言い伝えに以仁王の守り本尊が唐倉山の石神様であることも知りました。
高倉山、高倉神社、石神という遺跡や地名が以仁王の通った場所に多くあることも知りました。
『石神』・・・・・・『いしがみ』・・・・・・『石上』・・・・・・
三条市の信濃川右岸に『石上』という地名があります。
五十嵐川が信濃川に流れ込む場所です。
以仁王一行は加茂から小国へ向かって舟で信濃川を上っていきました。
五十嵐川との合流地点で以仁王の乗った舟は大きく傾き、上流へなかなか進めなくなります。
王は守り本尊である『石神様』に祈りを捧げます。
そして、どうにか五十嵐川からの濁流を避けることができました。
・・・・・と、想像してみました。
その場所を『いしがみ』、そして『三条宮』にちなんで『三条』と付けたのではないか?
この『いしがみ説及び三条説』を三条市内の歴史に詳しい人にしてみました。
『実はそのような説もあることはあるのですが・・・・・』と、次の言葉が出てきません。
そうですよね。
日本の歴史上誰も信じてはいない『以仁王逃亡伝説』が三条市という市の名前の由来になったなんて、絶対に三条市史に書ける筈が有りません。
王が最後に定住した場所は、今の東蒲原郡阿賀町上川地区の中山という集落です。
そこには、高倉神社、御廟山、石神、百八燈山等があり、王の墓(首塚・胴塚)が現存しています。
阿賀町には、渡部(わたなべとよびます)、猪(いの)、清野(せいの)という名字の人が大勢います。
その人たちは、自分たちの先祖は以仁王に関係があると思っています。
中山集落は集落全戸が清野(せいの)です。
「是非ともそこに行ってみたい、中山集落の人達からお話を聞いてみたい。」
先ず阿賀町を訪ねました。
新潟日報の特集記事の中に『以仁王に同行してきた武士の子孫である』と書いてあった『猪さん』にお会いしてお話を聞きました。
しかし、どうも様子が変です。
自ら積極的に語ろうとしないのです。
次に郡史編纂室に行きました。
以仁王の担当という委員からいくつかの資料をいただきました。
資料の中に『広報かみかわ(平成8年4月号 第334号 ふるさとの歴史と文化)』が有りました。
それを読んで合点しました。
広報紙では、以仁王逃亡伝説は全くの作り話であると結論づけていました。
当然ながら、広報紙は村民全てに配布されています。
と言うことは『猪さん』や『渡部さん』『清野さん』の名字を持つ多くの人の先祖は嘘を言っているということを旧上川村は認めたということです。
なんと、村は広報紙を使って村民である彼等の先祖を否定してしまったのです。
中山集落に入りました。
集まっていただいた方々は殆どがお年寄りでした。
勿論、全員清野さんです。
「私たちは、御先祖が昔からしてきたように自分たちも裏山にある高倉宮のお墓をこれからも守っていく」
この事は身を以て感じることができました。
そこで、中山集落のお年寄りに
「裏山の御廟山は以仁王のお墓であることは間違いないと思う。先祖の銀太郎、銀次郎の話も本物だろう。しかし、不幸なことは、歴史の途中に事実を曲げ、悪ふざけをした人がいたことです。柳田国男氏はその犯人は『木地師』だと言っています。柳田国男氏の主張は恐らく間違いないと思う。皆さんが今やれることは、その『木地師』が悪ふざけをした部分を明らかにすることではないか。そのためには、区長さんがお持ちになっている以仁王が使ったという『茶釜』の鑑定をしたらどうか。『茶釜』が以仁王の時代の物であれば証拠のひとつになるし、そうでなかったとしても、『木地師』の仕業とすれば良いではないか。このままいつの時代の物か鑑定もしなければ皆さんも御廟山他全ても単なる伝説とされてしまう」と提案しました。
この提案は、今でも実現されていません。
無理もありません。
民俗学者柳田国男氏は彼の著述の中で「例えば中山集落の十三戸の清野氏の本家は元祖の銀太郎、銀次郎の兄弟が路を開いたと称して、その名を以て呼ばれている山もあり、いわゆる小野の猿丸大夫と何かの関係が有るにも拘わらず、今では最近の解説と妥協して、以仁王の従臣の子孫と言うものがあると、またそうでも有ろうかと思っているようである。」とか「越後小川庄中山の清一家が(中略)後に会津の伝説にかぶれて、共々に高倉宮を称することになったのかも知れぬ」などと清野さんたちを名指しで非難しているのですから。
先祖を否定されることがどんなに辛く悲しいことか。
柳田國男氏の人格を疑ってしまいます。
柳田國男氏の決定的なミスを発見しました。
「いわゆる小野の猿丸大夫と何かの関係が有るにも拘わらず」というくだりです。
柳田國男氏は、中山集落は“小野の猿丸大夫と何かの関係が有る” と断定をしています。
中山集落は、以仁王に付いてきた清銀太郎銀次郎兄弟が集落を興したことになっています。
と言うことは治承四年(1180年)に集落ができたことになります。
猿丸大夫伝説が中山集落に有ったとなれば、猿丸大夫がいたのは、西暦八百年代ですから柳田国男氏の言うとおりとなります。
中山集落の人達に猿丸大夫伝説のことを聞いてみました。
全てのお年寄りが全く知らないと答えました。
なんと、猿丸大夫伝説は、別の40kmも離れた別の集落に有りました。
柳田國男氏が『小野の猿丸大夫と何かの関係が有る』ことを以仁王逃亡説が作り話であるとの決定的な論拠としたのであれば、完全にその論拠は根底から崩れたことになってしまいました。
『以仁王逃亡説』は史実か伝説か?
日本の正史では王は光明山鳥居の前で平家軍に殺されています。
民俗学者柳田國男氏までも、『伝説である』と彼の著述の中で述べています。
『史実だ』というのはごくごく少数派です。
この『以仁王逃亡説』は他の多くの伝説とまったく異なる点があります。
一見、会津、越後、駿河、甲斐、にバラバラに無秩序に言い伝えが散らばっているように見えますが、よくよく調べていくと、一つの線上にのみ言い伝えが残っているのです。
南会津では、何故か迷走しています。
何故、尾瀬から直接枝折峠を越えなかったのか?
その後、六十里越えや八十里越えで小国に行くルートがあるのに、福島方面へ2度も越えようとしたのは何故か?
結局失敗して、八十里越えを選んだのは何故か?
このように数々の疑問点が有り、それが『伝説である』との論点に繋がっていきます。
しかし、以仁王の言い伝えは全て一本の繋がった線上にのみ存在するのです。
この線上から、少しでも離れた所には、以仁王の言い伝えはひとつもないのです。
柳田國男氏が主張するように、木地師の某かが以仁王逃亡説を作り上げたとしても、この広い越後、南会津で一本の線上にだけ言い伝えを残すということは絶対に不可能なことだと私は思っています。
【終わり】