悲恋の貴公子、尾瀬の三郎
この本に初めて出会ったのは、2017年秋です。
湯之谷公民館の星義広館長から、『ふるさと歴史講座をやりたいので、尾瀬三郎について講演して欲しい』との依頼を受け、その打ち合わせで、公民館を訪れた時、公民館の2階の図書館の本棚からこの本を見つけたのです。
著者の『磯部定治氏』については、この時迄全く見識が有りませんでした。
図書館には、磯部定治氏の著作作品が何冊も有ったのですが、『ふるさとの伝説と奇談<上>』が最も私の興味を震撼させました。
早速手に持って読んでみると、私のホームページ『尾瀬三郎物語の謎を解く』や、『八条院あき子と以仁王の乱』で述べていることが、これ迄、全く私の知らない磯部定治氏という人物が既に解明していたことに先ずは驚きました。
例えば、『三条の滝の命名者は尾瀬三郎である』とホームページに記載したが、私よりもずーっと以前に磯部定治氏は知っていたのです。
尾瀬三郎が恋した人は誰か? についても、私は色々と推論を尽くした結果として、最終的に『2代の皇后多子』である可能性を指摘したが、磯部定治氏は『ふるさとの伝説と奇談<上>』で相手は『皇后多子』であることを知っていたのです。
恐るべき『磯部定治』です。
さて、この冊子をもう少し詳しく見ていきます。
最後の部分に『編者註』として磯部定治氏は以下のように述べています。
この伝説が生まれた時代が江戸時代以降らしいということがその内容からからも想像できる。 それは、
として、以下の3点を挙げています。
ひとつ目はジャガイモ。 平安時代には、未だジャガイモは日本に渡来していないこと。
平安時代の笠には骨がないこと。
登場人物の名前は、江戸時代に多く見られる名前であること。
この、指摘は正しいと思いますし充分な説得力が有ります。
ということは、江戸時代にこの長文のストーリーを創作した人物が、湯之谷にいたということになります。
更に、推理を進めると、この人物は、村の言い伝えや古文書を基に、『悲恋の貴公子、尾瀬の三郎』を創作したと考えられます。
言い換えると、湯之谷村の何処かには、尾瀬三郎に関する昔からの言い伝えや古文書が明らかに存在していたということが証明された訳です。
磯部定治氏が言う江戸時代の作品『悲恋の貴公子、尾瀬の三郎』を、全文下に示します。
そして、この文章の中から、磯部定治氏が指摘した部分、即ち、江戸時代に書き足した部分を削ぎ落してみます。
後半部分の姥石伝説は、別途『姥石大明神』で議論済みとして、これも割愛します。
『尾瀬の三郎』が湯之谷に現れたのは何時の頃か?
物語の冒頭に『1163~1165の長寛年間・・・』とあり、文末には、『・・・哀れな公家の物語が銀山平にある』となっています。
三郎は『公家』だという。
そして、一方のお話として『2代の皇后・藤原多子』が登場する。
三郎と皇后多子はいつしかひそかに想いを抱きあう仲になったという。
ここまでは、一般的に湯之谷村に伝わっている尾瀬三郎の言い伝えに一致しています。
しかし、ここから、一般の言い伝えにはないストーリーに変わってきます。
というのは、『三条義光』という人物名が登場するのです。
そして『三条義光』は三郎の同僚だというのです。
<村に伝わっている尾瀬三郎の物語>
今をさかのぼること八百余年、長寛年間(1163-65)。
当時貴族階級の権勢漸く衰え、保元、平治の乱を経て、これに取って代る田舎武士平氏の台頭急となる。
その数多い頭領中、一世の智将平清盛の勢威は正に昇天の如く、藤原氏や院政側を抑圧し、為に一方に大なる反感を持たれたのである。
第78代二条天皇の御宇、左大臣藤原経房の二男、尾瀬三郎藤原房利は、時の美しい后(きさき)に深い思いを寄せていた。
病弱の帝は在位6年わずか22歳で早世されたが、残された若き皇妃は才色すぐれ水も滴る許りの容色は宮廷の内外に其の比を見なかった。
妃は尾瀬三郎と、いつしか割なき間柄となった。
尾瀬三郎は絵もよくたしなんだという。
ある時、后の絵姿を書き、見つめていると、絵筆の先から胸のあたりにポタリと滴が落ちた。
それを同じく后に恋していた平清盛が見、「ここにほくろがあることまで知っていたとは、」と言いがかりをつけ、三郎を越後に流し、都から追い払った。
尾瀬三郎は従臣浮田の一党を伴って、遥々越の国薮神の庄(現在の湯之谷村である)に辿りついた。
さて恋仇清盛に敗れた三郎が京の地を離れるに際し御妃はひそかに三郎に形見として虚空蔵菩薩の尊像を賜わった。
三郎房利はこれを守り本尊として崇め、片時も肌身を離さなかったという。
哀れに思った土地の豪族はひそかにこれを関東方面に逃したが、山中に迷い込んでしまう。すると行く手に童子が現れ、枝を折々道案内してくれた。
枝折峠の名はここに起因すと云う。
さて一行、この頂に立って見渡すに渓谷は東南に向って展け、一条の清流せんかんと東流するを見て勢いづけられ、流れに沿って前へ前へと進む程に、遂に更に大きな一川との合流点に達した。
右せんか左せんかと跨躇することしばし、この時偶々上流から笠の骨らしいものの流れ来るを発見。
依って川上に人家ありと見、猶も歩をつづけて川を遡ること数日、遂に口内(燵岳)の山麓に大きな沼を発見した。
(・‥後、尾瀬三郎の名にちなんでこの沼を尾瀬沼という。)
此に於て附近の岩窟に居を定め、此所を本拠として広く志を同じくするものと密かに通じ藤原家再興を画し、営々として金銀、武具等戦備蓄積に努め、それらの埋蔵地は汎く関八州に及んだ。
又、同時に尾瀬周辺に天嶮を求めて要害の砦さえ築いたものの、天彼にくみせず哀れ三郎房利は大事を前にして空しく配所の鬼と化し、これがため家臣亦離散して、ここに尾瀬氏は威亡した。
三郎房利の歿後、その尊崇し来った守り本尊の化身は牛に乗って川をひた下りに下ったが、浪拝の岩場で牛は敢えない最期をとげた。
この地点を牛淵と称し今に伝わる。さて件の化身は暫らく此所の岩壁に休まれ後、更に下って北之岐川との合流点に達した時、蛇を呼びこれに乗って川を下ったが両岸欝蒼たる断崖相迫り昼猶暗く、見ゆるものとては只々川ばかり。この伝説あるため後世この川を只見川と呼ぶに至ったという。
かくて化身はなおも下って会津、柳津にとどまると後祀られて柳津虚空威尊となり、今会津有数の霊場である。
昭和40年に尾瀬三郎の石造が建てられた。
悲劇の大宮人の姿を今に伝えている。
一般的な尾瀬三郎物語では。
絵筆の先から胸のあたりにポタリと滴が落ちたのを、平清盛が見つけて・・・清盛が怒って越後に流罪とした。
磯部定治氏の故郷の伝説と奇談では。
絵筆の先から胸のあたりにポタリと滴が落ちたのを、三条義光が見つけて・・・世に言いふらし・・・40男清盛の耳に入り、怒って越後に流罪とした。
さてこの事件が発生したのは何時頃でしょうか?
清盛は40男だそうです。
となると、清盛がいまれたのは、1118年ですから、事件発生は、1158~1167年でしょう。
皇后多子と三郎がいつしか・・・・。
二条天皇の中宮の時は、いくら何でも有り得ませんね。
1162年に、多子の父親が死に、喪に入っています。
その間に、育子が中宮となります。
二条天皇は、1165年に崩御なされ、多子はこの年に出家しています。
このことから推理すると、1162年~1167年でしょう。
冒頭文に、長寛年間(1163-65)とあります。
辻褄はピタリと合っています。
清盛は三郎を越後へ流罪としました。
左大臣の息子を武士の清盛が流罪を決定できるのかどうか分かりませんが、文章を読む限りは事件発生年或いは、次年度に流罪の刑が執行されたのでしょう。
只気になるのが、流罪の地が『越後の国は薮神の荘、湯の谷の里であった』ことです。
何故、流罪の地が湯の谷の里なのか?理由が分かりません。
普通に考えて、流刑地に罪人を運ぶ為には、都から役人を同行させると思います。
同行人が居ました。
『従者浮田の一党を引き連れ』
あれっ、何か変です。
罪人なのに、三郎には従者が居ました。
山から下りて来たと語ってはいませんから、清水街道経由で歩いてきたのでしょう。
そして、三郎を哀れんで、土地の郷土ふたりが山に逃がしたようです。
公家さんの三郎を、なんの理由で、山に押しやったのでしょうか?
理解に窮します。
急峻で道もない山行なのに、牛を付けたと有ります。
これも又、理解不能です。