旧湯之谷村在住の男性(匿名希望)から情報をいただきました。
尾瀬三郎房利像の制作者は「霜田大治郎」という方だそうです。
制作当時の様子を語っていただきました。
『昭和30年に地元期待の奥只見ダムが完成し、未開だった奥地の観光開発に明るい展望が開けたのが米山村長の時代でした。同時に、村に広く伝わる「尾瀬三郎房利の言い伝え」を、湯之谷村が尾瀬への玄関口として、また、奥只見の銀山地区を観光開発地区としてアピールする格好の材料と捉えていました。
湯之谷村から尾瀬につながる現在の国道352号は、ダムの水没地の付け替え林道から県道へ昇格、更に昭和50年に国道に昇格したものであるが、国道昇格に至るまでには、地元を挙げての国・県への陳情活動や政治的な働きかけが強まった時代でもありました。そのような中、昭和30年代後半頃と思われますが、当時の米山村長が田中角栄氏(当時は大蔵大臣?)に東京目白の事務所で会った際に、銀山地区の観光開発の目玉としての「尾瀬三郎像建立計画」が話題となり、この計画を進めるにあたり、田中角栄氏から、氏と交友のあった彫刻家「霜田大治郎」を紹介されたと聞いています。』
霜田大治郎氏をネットで検索してみました。
出身地 新潟県柏崎市宮之窪
生 年 1912年(明治45年)
没 年 1996年(平成8年)
石工職人の父、吉蔵の二男、通称大次郎。高崎の石材店で修業し、模範工として組合より表彰。昭和13年東京滝野川彫刻研究所で勉強。翌年28歳で文部省彫刻部門に「春来」初入選。現在、市内公共施設にある人物作品は、「春来」の他、「ラッパを吹く幼児像」、「平和観音」、「仰望」などがある。また庭園彫刻は「五輪の輪」や「拓く」など、共に豊かで凛々しい姿から空を仰ぎ努力する夢を感じさせる。昭和36年渡仏2年間の成長は著しかった。日本の伝統美を脚色した燈籠の人工美は誰も手掛けぬ作品で、フランスのレーグ教授は東洋的感覚を身につけ創作に挑戦した表現を絶賛している。文展・日展に12回入選している。
(新潟県柏崎市ふるさと人物館 紹介文より引用)
ラッパを吹く幼児像