魚沼市七日市に有る "姥石大明神" については、平成29年6月頃、磯部定治氏の著書『尾瀬の三郎』を読み始めて知りました。
その後、8月、湯之谷公民館長から現地を案内され、”姥石大明神” を訪れました。
まず驚かされたのは、中央の奇岩です。
そして何とも言えない、赤と黄色、それも朱色がかった光るような岩肌とその巨大さでした。
「ウーン。これはきっと何かあるなー」これが、私の "姥石大明神" に対する第一印象だったのです。
その時以来、この ”姥石大明神” に魅せられ、謎解きに挑戦してきました。
しかし、資料があまりにも少ないため、現時点では、殆んど何も分かっておりません。
今回は、約一ヶ月間悪戦苦闘した結果も加え、”姥石大明神” についての私なりの見解を述べてみたいと思います。
疑問その1 尾瀬三郎の乳母が ”姥石大明神” の場所に現れたのは真実か?
”姥石大明神” の言い伝えとは、『尾瀬三郎の後を追って、都から遥々、魚沼七日市に乳母が現れました』という言い伝えです。
この言い伝えは、その後収集した、磯部定治氏の著書『ふるさとの伝説と奇談』『秘境への郷愁』の他、『井口新田上之原風土誌』にも載っています。
しかし、磯部定治氏は、その著書の中で ”姥石大明神” の言い伝えを含む ”尾瀬の三郎伝説” については、『この伝説の生まれた時代が、江戸時代以降らしいことはその内容からも想像できる』とし
その理由として
1、ジャガ芋は慶長3年(1598)にジャカルタから渡来したもので、平清盛の時代にはまだ日本にはなかった。
2、昔の人が山中で用いた笠には、骨はなかった。
3、(乳母のお供の)三栄門、与左衛門、市十郎らは江戸時代に見られる名前である
と所見を述べています。
”姥石大明神” の三郎の乳母のストーリーは、尾瀬三郎の言い伝えの後半に、突如別のお話として、追加されて記述されているのです。
さて話変わってこちらは、三郎房利の乳母三ツ俣の前である (故郷の伝説と奇談)
一方、京に残った三郎の乳母三ツ俣は・・・・・ (尾瀬の三郎)(秘境への郷愁)
なお、房利卿が越後に流されたとき、その乳母みつ保の前は(井口新田上之原風土誌)
私も、磯部定治氏の所見は正しいと思っていますので、『三郎が山に入っていった後に、湯之谷七日市に乳母が現れた』という言い伝えも、尾瀬三郎の言い伝え同様に、江戸時代以降に創作されたのではなかろうかなと思っています。
私は、このホームページで述べているように、『三郎は尾瀬から峠を越えて湯之谷にやって来て、再び尾瀬に戻って行った』と主張しています。
これに反して、地元も含め大方の人は、『尾瀬三郎は、どこかから湯之谷七日市に現れ、その後、山に入って行った』と捉えています。
私は、『頼政から渡辺長七唱が命ぜられた目的地は湯之谷ではなく越後国小国領である』としています。だとしたら、三ツ俣あるいはみつ保という乳母が、湯之谷の地に三郎を追いかけてくる訳がないのです。
更に、”尾瀬三郎” という名は、唱が沼田で舟を降りた後に渡辺唱が名付けた仮の名前であり、湯之谷七日市に尾瀬三郎が現れたという噂が京の都まで伝わったとしても、仮の名の ”尾瀬三郎” を、自分の育てた子供であるとの確証をこの乳母が持つことには相当無理が生じるのです。
尾瀬三郎に扮した清銀三郎に乳母がいた可能性はあったとしても、仮の名の ”尾瀬三郎” には絶対に乳母は存在しないのです。
疑問その2 三ツ俣か、みつ保か?
この謎解きは簡単です。
恐らく、原文の毛筆文字の読み間違いでしょう。
『保』も『俣』も字体がよく似ています。
井口新田上之原風土誌の原文の毛筆文字が存在していれば、どちらが正しいか即判明するでしょう。
そのことよりも、『~の前』の方が気になります。
『~の前』とはどのような意味なのでしょう。
『三ツ俣』『みつ保』が名字で、『前』が名前なのでしょうか。
『保多加御前、紅梅御前、静御前、巴御前』の『御前』の変形と考えるべきなのでしょうか。
『御』を崩し字で書くと『の』に似た字になりはしないのか。
『くずし字辞典』で調べてみましたが、その可能性はなさそうです。
しかし、どうも、気になってしょうが有りません。
疑問その3 乳母石か姥石か?
乳母も姥も読み方はどちらも『うば』です。
しかし、意味は全く違います。
姥は年老いた女性の意味です。
乳母は、変わって乳を飲ませた代理母の意味です。
また、乳母には、乳飲み子の頃に、養育してくれた母という意味もあるようです。
「乳母がいつしか姥になった」という単純な解釈で良いのでしょうか。
疑問その4 姥石大明神は神社なのか?
姥石大明神は、小規模な森の中に有り、入り口には、それこそ立派な鳥居が建っています。
神殿らしいものはなく、中央に、姥石が鎮座し、その前に、墓石のような石が三つ並んでいます。
果たして、姥石大明神は神社でしょうか。
有名な、東京の神田明神は、別名神田神社といい、神主もおられ、御祭神も祭られていますので神社です。
インターネットは便利です。
神社検索というサイトが有ります。
新潟県魚沼市の神社で検索してみました。
ヒットしませんでした。
神社庁が出している神社検索サイトが有りました。
これにも ”姥石大明神” はヒットしませんでした。
どうやら、”姥石大明神” は神社庁が管理する神社ではなさそうです。
”姥石大明神” の入り口の道標に、『湯之谷村指定文化財 史跡文化財』と有ります。
その下に 『(伝)姥石大明神』と書いてあります。
やはり、”姥石大明神” は史跡であって、神社ではなさそうです。
疑問その5 姥石の石はどこかから運んだのか?それとも自然石か?
磯部定治氏が『ふるさとの伝説と奇談』の中で、姥石を自然石と表現しています。
石や岩はそもそも自然石ですから、「それとも自然石か?」という疑問自体誤りですね。
私の疑問点は、姥石の石はここに運び込まれた石か、それとも、何万年も前からここに存在していた石か?という意味です。
確かに、この辺りでは見たこともないような、形、色、をしています。
「きっと、どこかから運び込んだに違いない」と思うのも、分からなくもありません。
岩質は、多分堆積岩ではなさそうですが、岩石の専門家ではないのでよく分かりません。
火成岩のような気がしますが、全く自信が有りません。
岩石図鑑で調べても、良く分かりません。
国土地理院の地図に『シームレス地質図』というのが有るのを思い出しました。
ネットで『シームレス地質図』を検索した結果、魚沼の七日市付近は、
前期中新世-中期中新世(N1)の非アルカリ苦鉄質火山岩類 約2200万年前~1500万年前に噴火した火山の岩石(安山岩・玄武岩類)
と出ました。
この地図によると、分布範囲は、やまびこ荘を中心とした小高い山全体を示しています。
その北端側が丁度「姥石大明神」の位置にピッタリ合致していました。
※インターネットで「シームレス地質図」で検索し、グーグル地図の航空写真と見比べてください。見事に地形図と地質図が一致します
何時の時代かは分かりませんが、何かの地殻運動などにより、地下で固まった火成岩が地上に露出したものと考えてよさそうです。
という訳で、”姥石” が自然石であるというのは、解明できました。
でも、何故この自然石が ”姥石” と呼ばれるようになったのかは、全く分かりません。
湯之谷はどこを掘っても温泉が出るそうです。
この火山石の下に温泉の湯脈が有って、その熱が、大岩に伝わり、触れるとあたかも姥を連想させるような温かさだった・・・・・・なんてことは、考えすぎでしょうね。
疑問その6 きっと有るはず、別の姥石伝説が!
尾瀬三郎伝説に付随した ”姥石伝説” が、磯部定治氏の所見通り、江戸時代の創作だとしても、”姥石” という自然石は間違いなく七日市に存在しています。
しかも、地下から出現した火成岩であることもほぼ確定しました。
石の形や色、大きさ等 ”姥石” と称されるこの自然石と対峙した大昔の人々は、恐らく、この大石に ”神” の存在を感じ取ったに違いありません。
と、想像すると、ここの ”姥石” には、尾瀬三郎の付随した伝説以外の、もっと素朴で原始的な、『言い伝え』が有って当然のような気がします。
是非とも、地域の方々からの、この ”姥石” についての様々な情報をお願いいたします。
情報が多ければ多いほど、真相に近づけます。
疑問その7 昔の村人たちがこの石を見て ”姥石” といった理由をいろいろ考えてみました
”姥石” という単語が、比較的ポピュラーであることは、ネットを検索してみて理解できました。
全国にはいくつもの ”姥石” と称する石が存在します。
それらの ”姥石” がどのようなものか、紹介します。
① 岐阜県養老町の「姥石」
まずは、下の文章をお読みください。
「姥石物語」
高田大正町荘福寺の境内に入ると、松の木の下に鋭く、しかも黒っぽい、頭の部分が刃物で割られたような高さ六十センチメートルくらいの石があります。人呼んで姥石といっています。
いつの頃か分かりませんが、京都東福寺の僧で、寺の書記をしていた徹書記と呼ぶ人がいました。本名は紀正徹で号を清厳といいました。この僧は文学僧というのか、歌をよみましたが、危険思想の持ち主ではありませんが、いつも歌の文句に反政府的な表現があったとかで流罪となり、荘福寺にいたのだそうです。
ところが或る一人の女がこの寺にたどりつき、この姥石のそばで突然苦しみだし、あげくのはて悶死してしまいました。それから、その石が人の肌のように温かくなり、夜になると、毎晩奇声を発しだしました。人々は石のそばで悶死した女の霊魂が石にのりうつったのだろうと恐れました。
これを聞いた正徹は、
「おふちにはあふことかたき姥石の
さこそ肌の 冷たかるらん」
と歌を読み刀を抜いて石に向かって「成仏せよ」と喝を入れました。不思議なことにそれ以来石は冷たくなり奇声も発しなくなりました。
人呼んで「姥石」といいます。
その後、正徹は許されて京都に帰りました。まことに不思議な話ではありませんか。
この「姥石物語」は、岐阜県養老町教育委員会編集「のびゆく養老町」から引用しました。
「姥石」の写真が添付してありましたが、白黒写真のせいか、全体像が把握できませんでした。
そこで、ネットでブログなどを検索してようやく見つけたのが下の写真です。
写真を見て「びっくり仰天」しました。
何と、湯之谷の「姥石」に雰囲気がすごく似ていると思いませんか?
七日市の「姥石」の呼称は、もしかしたら、形から来ているのかも知れませんね。
埼玉県児玉郡神川町の「姥石」です。
写真ではなくイラストで描かれています。
この姥石様も、湯之谷七日市の姥石に似ています。
これまでの、三ヶ所の「姥石」の共通点を探してみました。
共通点は・・・・・・・
石の形に「懐」が有ることではないか
と感じました。
神川の民話
姥石様
渡瀬の南のはずれ、いこい食堂の前から県道を斜め右に折れ、かんな旅館の先まで行く道があります。この道が河原にはいる直前の左側崖の上に、「姥石(うばいし)様」と呼ばれている黒い石があります。三波石の四十八石のひとつに数えられているこの姥石様は、昔から咳を治してくれると伝えられています。
ゼンソク、百日咳などで苦しむ人が、煎った豆を供えて願をかけたものだそうです。
昔は、このような信仰が広く行われていたようで、「日本の伝説」(柳田国男著)という本には、似たような話が沢山載っています。それによると、咳を止めてくれる姥石あるいは姥神様は、村はずれの水のほとりにあることが多く、「咳」は「関」の字だったのではないか、関は、せき止めるの意味で、道祖神と同じく邪悪が村に入ってこないよう、村はずれに祀ったものが、いつしか忘れられ、セキという言葉から、咳の病ばかり祈るようになったのだろうということです。
供物として、麦こがしなど咳込み易いものを上げるのはそれを食べて咳の苦しさを知ってもらい、早く治してもらおうという、昔の人の知恵だったようです。
この姥石のように、昔広く行われていた素朴な信仰のなごりが、この村にも残っていることを思うと、歴史も身近に感じられます。
山形県寒河江市元町の「姥石」です。
姥石はJR左沢線寒河江駅の西方、元町の1号公園の一角にある。寒河江駅の西側の踏切が姥石踏切と称されているが、この辺りの地名ともいわれその地名の元となった石と伝えられている。
この石にも「懐」が有ります。
富山県の立山登拝道にある「姥石」です。
姥石の窪みの間に、地蔵石仏が配置されています。
千葉県富津市の「姥石」です。
民話によると、巨大な姥が木の実を挽いて団子にして食べるための石臼で、懐に入れていたが、落としてしまったものだそうです。
高さ1.2m、周囲8.5mのものでこの近辺にある巨人伝説の一つとされています。
鹿児島県曽於市末吉町の「姥石」です。
掲示板には
「住吉神社の頂上にかまど形の姥石がある。
姥石は二基あり、一基は頭部の石が失われている。昭和5年3月7日考古学者鳥居竜蔵博士により発掘され現在の二基が露出したものであった。
鳥居博士はこの姥石を立石といわれた(後略)」
曽於市の指定文化財に指定されています。
果たして、この石に「懐」が有るのか?
石の下部の所に「懐」らしいものが見えなくもありませんが・・・・・・・。
この石は、自然石ではなさそうです。
神奈川県相模原市緑区の「藤木川の姥石」です。
いわれなどは不明です。
この姥石には、明らかに「懐」が有りました。
青森県小泊村の「姥石」です。
津軽国定公園内に有り説明看板には
「風雪や波に削られ、海岸にそそり立っています。周りに大小の岩が並んでおり、親が子と孫を従えるように見えることから、この名がつけられました」と有ります。
この姥石にも、明らかに「懐」が有ります。
岩手県岩木山の登山道にある「姥石」です。
戦前まで岩木山は女人禁制であり、女性はこの姥石までしか上ることが出来なかったそうです。
この姥石にも、「懐」が有ります。
新潟県関川村光兎山の「姥石」です。
861年、天台宗の慈覚大師によって開山され、戦前まで女人禁制であったと言います。
この姥石には「昔、女人禁制の禁を破って登ってきたら石になってしまった」と言う伝説が有ります。
個の石にも、「懐」が見えます。
漸く結論らしきものが見えてきました。
湯之谷七日市の「姥石」は、大昔の人々が、石の形状から「姥石」と命名したものと思われます。
「三ツ俣の前」のストーリーは、磯部定治氏の指摘通り、江戸時代の創作でしょう。
しかし、この言い伝えの重要な点は、”尾瀬三郎が七日市に現れたという言い伝えが七日市に明確に存在し、且つ、ここに素晴らしい『姥石』があったからこそ、この乳母のストーリーが生まれた” ということです。
即ち、”尾瀬三郎が1180年に七日市に現れなければ、江戸時代にこのストーリーが生まれなかった” ということです。