昭和11年6月「登山とスキー」より
尾瀬の名は『会津風土記』に「小瀬峠 陸奥上野二州之界」又は「小瀬沼 在会津郡伊南郷縦八里横三里」として載っているのが古書に見られる最初である。此書は寛文六年(1666年)に編纂されたもので、これに先立つこと約二十年の『正保図』には、「さかひ沼」と記してあるが「をぜ沼」とは書いてない。或は正保以前から「をぜ」の称があったかとも思われる、けれども『会津風土記』以外には確かな記録がないのである。上州方面では古い地誌の編纂がなかったので、遥に後れて個人の手に成った安永三年(1774年)の序ある『上野国志』に、沼峠 駒ヶ岳の東に在り、上野・越後・陸奥の界なり、山上に沼あり、尾瀬沼と云、沼の中央国界なり。とあるのが最初の記録であろう。是等に拠ると会津方面では小瀬と書き、上野方面では尾瀬と書いていることが分る。しかしいづれの地方が名付親であるかは判然しないし、又をぜの語源も知る由がない。武田君の話に拠ると、阿能川(あのうがわ)岳と小出俣(おいずまた)岳との間の尾根に俚人が「をぜの田」と称する処があって、やはり草原の湿地であるとのことであるから、参考とすべき地名である。『利根郡村誌』には尾瀬沼の項に「尾瀬沼ハ往昔阿部三太郎尾瀬ニ住シテ此沼ノ沿岸ニ稲ヲ播シテ何処ヨリモ早キヲ以テ早稲ト称シ中古慣称シテ早瀬ト云後チ今ノ尾瀬沼ト改称セリ」とあって、早稲の転訛したものとしてあるが、尾瀬で米の作れないことはその後の実験が証明している。これは何処にもよくある例の地名に附会した説明に過ぎまい。
尾瀬の伝説は二、三あって以仁王に関するものが会津方面に伝わっている。南会津郡楢原村大字水抜の高倉山の麓に在る高倉神社は、高倉宮以仁王の霊を祭ったものであるというが、此附近には倉と名の付く地名が多いから、倉はを意味し、高倉神社の起原もそれと関連したもので、以仁王のことは後に結び付けられたものではあるまいかと思う、しかし確かなことは実地を知らぬので何とも云えない。明応九年に記したという高倉神社の勧進帳の文は、文化六年の序ある『新編会津風土記』に載っている。それに拠ると王の御一行は東海道から陸奥に赴かんとして檜枝岐山を通られたと記してあるので、尾瀬を経由したものであろうと想像されるのみに過ぎない。然るに同じ村の大字大内に在る高倉神社の社記は、治承四年八月六日渡部長七唱の手記に係ると伝えられ、宮川久雄君が採録して、大正十二年発行の『登高行』第三年に掲載した。其全文は次の通りである。
人皇八十代高倉院ノ御宇治承四年秋書
院ノ第二皇子以仁親王、是レヲ高倉宮ト号ス。源三位頼政ノ勧メニ依リ、兵ヲ挙ゲ、宇治川ノ合戦ニ敗北シ、足利又太郎忠綱ノ情ニテ、御助命アリ、越後ノ住人小国右馬頭頼之ニ依リ、落チ給フ。右馬頭ハ頼政ノ弟ナリ。親王供奉ノ面々ニハ、尾瀬中納言藤原頼実(是レハ檜枝岐山ノ尾瀬大納言頼国ノ弟ナリ)、同三河少将光明、同小椋少将藤原定信、同乙部右衛門佐重朝(頼政ノ子ナリ)、並渡部長七唱、猪野隼太勝吉、其他従卒十三人、外ニ西方院寂了(是レハ長谷部信連ノ一族)。親王中仙道筋御下向、上州沼田ヨリ戸倉沼山ニ御泊。八日尾瀬中納言卒去、骸骨ヲ沼ノ上ニ納メ、尾瀬院殿大相居士ト号ス、則チ文ハ宮ノ御筆ニ成ル。治承四年七月九日尾瀬殿邸ヲ発セラレ、檜枝岐ニ御下リ、燧ヶ岳ノ麓ノ沢ニテ三河少将卒去、又茲ニテ御筆ヲ以テ、参高霊位大相居士ト石文アリ、此ヨリ此沢ヲ参河沢ト唱ヘ、夫レヨリ漸ク檜枝又ニ着セラレ、御宿村司嘉慶泊リ、御前足ニ国ノ掟ヲ尋ネラル―(中略)―治承四年八月二日楢戸村御出発、供奉ノ面々ニハ、井戸沢十郎衛門正根、渡部長七唱、猪野隼太勝吉、乙部右衛門佐重朝、並ニ小川権蔵、以上十二人。御宿滝王院案内ニテ、八十里山吉ヶ平迄供奉―(中略)―八月五日蒲原郡加茂ノ社前ニ於テ、小国城主右馬頭頼之馬上七騎ニテ宮ノ御迎ニ来リ、御対面御悦ビ一方ナラズ(下略)。
同君はこれを高倉神社に就て写されたものか、或は檜枝岐に伝わった写しを書き取られたものか、何とも断ってないが恐らく後者であったように思われる。頼政の弟の小国頼行、渡辺丁七唱、猪隼太などは史上に散見するが、尾瀬大納言に就ては所見がない。今試に高倉宮の御一行が取られた行程を『新編会津風土記』に拠って追跡して見ると、戸倉から檜枝岐に入り、八総を過ぎ中山峠を越え、荒海川に沿うて田島に出で、大川沿いを楢原村に達し、ここに暫く御逗留の後、引返して田島から駒止峠を踰えて山口に出で、伊南川に沿うて下り、叶津から八十里越を経て越後国にお出になられたのであるが、其後のことは不明である。ただ東蒲原郡津川町から南二里の東山村に御廟山というのがあって、山上の古墳は即ち高倉宮の御墓であると伝えられている。
この伝説は何を目的としているのであろうか、尾瀬附近の地名を説明する為としては、少し念が入り過ぎているし、又大内にある高倉神社の由来を語る為のものとしては、どうも適切とは言い難いようである。
又『新編会津風土記』には、原野の部に、「小瀬平 古町組檜枝岐村ノ西ニアリ、東西三里計、南北四里計、只見川原中ヲ流ル。土人ノ説ニ昔以仁王ニ供奉シ来リシ小瀬大納言藤原頼国ト云フ人住セシ地ナリト云。今モ小瀬沼ノ[#「小瀬沼ノ」は底本では「小瀬沼の」]北岸ニ小瀬殿ノ的場ノ跡ト云アリ、又原中ニ水田ノ形残レル所アリトゾ。」とあって、頼国も供奉の一人であったのが尾瀬に定住したようになっているのは、社記と相違している点である。寛文六年の『会津風土記』には以仁王に関する記事はない。
越後の北魚沼郡の伝説は、以上と少しく趣を異にし、以仁王との関係は毫も説かれていないのである。
平清盛に憎まれた尾瀬大納言は、隠遁の地をもとめながら逃れて栃尾又に来り、更に山深く入ろうとして路に迷った。其時大明神が現れて木の枝を折って路しるべとしたので、今もそこを明神峠又は枝折峠と呼んでいる。只見川の岸では青味がかった岩壁に水が落ちて美しい波紋を画くのを見て礼拝された、浪拝という名は夫から起ったのである。ともいい、又大納言が尾瀬から牛に乗って只見川を渡った時、此処で川浪の上に虚空蔵菩薩が出現したので礼拝した、それで浪拝の名がある。とも伝えられている、しかしそれから如何なったかに就ては明かでない。ひっきょう尾瀬が如何にも物さびた山奥に在る景勝の地で、貴人の隠棲所にふさわしいというような考えから、尾瀬と大納言とが結び付けられたもので、古人はそれで満足していたのであろう。
以仁王がお通りになられたという上州方面には、更に其言い伝えもなく、かえってて如何にも荒くれた伝説が残されているのも一奇というべきである。『利根郡村誌』には
尾瀬城墟
戸倉村ヨリ乾ノ方四里余ニシテ、景鶴山ノ中腹ニアリ。天然ノ巌窟城壁ヲナシ、牙城ニ均シキ所方壱町余ニシテ、稍降リテ平坦地東西弐ヶ所アリ、徒属ノ住セシ所ト云フ。
悪勢(ヲゼ)ト云ヒシ剛ノ者、五六十ノ従者アリテ、此城墟ニ住シ、近隣ヲ掠奪シ、暴行日ニ甚シク、王沢ニ沾ハズ。因テ日本武尊、当郡最高ノ宝保鷹山ニ在シ、王軍ヲ向ラル。悪勢魔法ヲ以テ種々ノ奇術ヲ施シ、盛夏ニ雪ヲ降ラセ、或ハ火ヲ雨ラセ、王軍ヲ悩マス数々ナレバ、御進撃被遊、岩代国火打岳ヨリ神風ヲ起シ、御征伐ナシケレバ、悪勢通力ヲ失ヒ、一日ヲ不出シテ撲滅シ、賊党四方ニ敗走スト。
又康平年間阿部貞任滅亡ノ時、阿部三太郎残党僅ニ三十三人附キ従ヒ、奥州ヨリ此山中ニ来リ、盗賊ヲ業トシテ年月ヲ経過セシニ、残党次第ニ嘯集シテ、近里遠境意ニ任セテ悪行シ、頗ル国家ノ愁トナル。後チ世嗣相続キ、一ノ石太郎、二郎、三郎、松冠者、宮太郎、太郎冠者及ビ檜枝又三郎ノ七世、康平ヨリ貞応マデ凡ソ百六十年間ノ居城タリ。玉石雑誌ニ因リテ之ヲ記ス。因ニ云フ、確乎タル証拠ナシト雖モ、旧来ヨリ言伝ヒ聞伝ヒヲ参考スルニ、山野等ノ名称粗々縁故アルモノヽ如クナレバ、記シテ後来ノ識者ニ俟ツノミ。
という記事が載っている。此外尚出所不明の系図が一枚載せてあるから、ついでに其一部を採録することにする(次頁を参照)。
この系図は以仁王の伝説と関係あるらしく思われるが、出所が不明であるのは遺憾である。