これは福島県檜枝岐村に伝わるお話です。
その昔、以仁王(もちひとおう)という落ち武者が、戦を逃れ山奥にある檜枝岐村にやってきました。以仁王は一晩だけこの村に泊まるつもりでしたが、お供の尾瀬大納言藤原頼国公が病に倒れてしまいました。追っ手を恐れた以仁王は、頼国公の回復を待たずに、ほかのお供たちとこの村を後にしていきました。
数日後、ようやく病状が良くなった頼国公は以仁王の後を追い、さらに山奥へと入っていきましたが、どちらの方角へ行けばよいかかいもく検討がつかなくなってしまいました。頼国公が足をとどめたその場所は、広い高原地帯となっており、人の気配がまったく感じられない地であったため、そのままひっそりと暮らすことに決めました。
「尾瀬」の由来は、この地で生涯を過ごした尾瀬大納言頼国公の姓からとったと伝えられており、檜枝岐村の中土合公園には石像が建てられています。
南会津の伝説によれば、「以仁王一行は、尾瀬ヶ原から南会津の村々を経て、叶津から八十里越えで越後吉ヶ平に出て、小国領に入った」とあります。
一方、この桧枝岐村の尾瀬大納言藤原頼国公の伝説は、
1 大納言が病気になった。
2 宮は村を出て行った。
3 数日後、病気が快復した。
4 宮の後を追った。
5 道に迷って尾瀬に出た。
6 そのまま尾瀬に留まった。
というストーリー展開になっています。
即ち、尾瀬大納言は宮の後を追ったら、何故か尾瀬に着きましたとなっています。
ということは以仁王は、南会津の伝説とは異なる、全く正反対の方角に逃げたことになります。
南会津の伝説と辻褄が合いませんね。
ということから「尾瀬大納言伝説は後の誰かが創作した偽りの物語」と決めつける人たちが出てくるのです。
しかし、このストーリーこそ、真実・事実なのです。
この謎の解明は「尾瀬大納言・尾瀬次郎定連、そして尾瀬三郎房利」で解明します。