大利根酒造有限会社 ホームページより
不思議に思われる方も多いようです。
大昔にまで、遡ったお話です。
二条天皇の御代
時の左大臣藤原常房の次男、尾瀬三郎藤原國卿は、平清盛の策略によって都を追われ、越後の七日市から現在の湯之谷村を経て、燧ヶ岳麓の岩穴に住み着きました。
三郎は六尺豊な偉丈夫、文武両道に秀で、里人も気さくに交わり、一緒に雑穀の濁酒など呷ったので、「オゼノサダイジン・尾瀬の左大臣」と親しまれたと伝えられます。
尾瀬沼の名も、尾瀬三郎の名に因んでつけられました。
三郎の死後、守り本尊の化身は牛に乗って川を下り、牛が倒れると蛇を呼んで、平地に向かったと伝えられます。
弊社は、尾瀬のふもと唯一の造り酒屋なので、「オゼノサダイジン」に肖ろうと、酒銘を「左大臣」にいたしております。(原文のまま)
群馬県沼田市白沢町高平の大利根酒造有限会社のホームページに『尾瀬三郎の謂れ』が書いてあるのを見つけました。
尾瀬三郎の父親の左大臣の名前は 『藤原常房』 と表記されています。
対して、越後魚沼の尾瀬三郎の言い伝えは 『藤原経房』 ですが読み方が同じなので気にしません。
面白いのは、『越後の七日市から現在の湯之谷村を経て、燧ケ岳麓の岩穴に・・・』の文章です。
つまり、七日市や湯之谷村という地名が遠く離れた群馬県の沼田市に伝わっているのです。
因みに、七日市というのは、湯之谷村七日市です。
七日市には、『姥石神社』が有り、この姥石が尾瀬三郎の乳母(姥)であるという言い伝えも有ります。
また、『尾瀬三郎は七日市薮神荘に現れた』という言い伝えも有ります。
このように、尾瀬三郎に関する越後側と沼田側の言い伝えが、何故かぴったりと一致しているのは本当に驚かされます。
もうひとつ重要な共通点が有りました。
『三郎は六尺豊な偉丈夫、文武両道に秀で』と有るように尾瀬三郎という人は、背が高くハンサムボーイであることは越後側の言い伝えに共通します。
これはもう、尾瀬三郎という男性が、『ヨカイイ男』であったことは疑いの余地はないでしょう。
桧枝岐村に現れたという『尾瀬大納言』の容姿がずんぐりむっくりであるのとは大違いです。
尾瀬三郎立像
尾瀬大納言立像
しかし、文中の『尾瀬沼の名も、尾瀬三郎の名に因んでつけられました』についてだけは少なからず疑問が残ります。
とはいうものの、実は、越後側の尾瀬三郎の言い伝えも同じような言い回しになっているのです。
もしも、これが事実であると仮定すると、尾瀬三郎の尾瀬という姓名は、越後国に現れる前から呼ばれていたことになります。
何故ならば『越後から山に入って尾瀬に着いた時に尾瀬三郎は尾瀬を発見し、発見後に、尾瀬と呼ばれた』からです。
となると、桧枝岐村や沼田に現れたという『尾瀬大納言や尾瀬次郎』の尾瀬という姓名と尾瀬という地名はどのような解釈が出来るのでしょうか?
この不可思議な矛盾を解くとすれば、『尾瀬ヶ原や尾瀬沼は三人が生存する前から尾瀬という地名が存在し、三人の尾瀬という姓名は尾瀬という地名に因んで付けた』と解釈するしか有りません。
つまり、尾瀬ヶ原を起点にして、太郎は『尾瀬大納言に扮装して桧枝岐村へ行く』、次郎は『尾瀬次郎に扮装して沼田へ行く』、三郎は『尾瀬三郎に扮装して越後へ行く』と解釈するしかないのです。
しかし、誰が、何故にこのような、不可解なことを考えついたのでしょうか?
『太郎』『次郎』『三郎』って、いったい何者でしょうか?
彼ら三人にこの不可解な指示を出したのは、『渡邉唱と猪隼太』でした。
『渡邉唱』は、『源頼政』から、以仁王を越後国小国領へお連れするように、指示されました。
そして、川舟の荷物に紛れて、漸く沼田迄到着しました。
問題は、沼田から、どの経由で越後国小国に行くか?
一般街道での行動は危険過ぎます。
ということで尾瀬経由としました。
尾瀬から越後国迄、どのルートを選択するか?
以仁王の一行の武士団の中に、清三兄弟が居ました。
『渡邉唱と猪隼太』は、清三兄弟、即ち『清銀太郎、清銀次郎、清銀三郎』に作戦の実行を伝えました。
清銀太郎には尾瀬大納言、清銀次郎には尾瀬次郎、清銀三郎には尾瀬三郎と名乗るように命じました。
そして、越後国迄への探索を命じられた『清銀三郎扮する尾瀬三郎』には、山に詳しい数人の道案内人を付けました。
尾瀬三郎一行は、尾瀬ヶ原から沢を下り、途中から枝折峠を越えて、苦難苦行の末、漸く越後湯之谷村に到達しました。
その到達地点が、湯之谷村の七日市でした。
そこで、清銀三郎扮する尾瀬三郎は、汚れた衣服を脱ぎ棄て、伸びた髭もさっぱりと剃り上げ、公卿衣装に着替えます。
そして、公卿姿に化けた清銀三郎は、七日市の村人の前に現れます。
公卿衣装は、村人を安心させるための『渡邉唱と猪隼太』が考えた作戦です。
この作戦が旨く行き、『里人も気さくに交わり、一緒に雑穀の濁酒など呷ったので・・・』の後、山に帰って行きました。
尾瀬沼では、渡邉唱や以仁王一行が三郎の帰りを今か今かと待っています。
渡邉唱に会った三郎は、『越後への道はとても以仁王や鶴丸が歩き通せるような道ではない』ということを報告します。
この報告で、三郎の役目は完了です。
三郎は、元の清銀三郎に戻ります。
同行した道案内人達は、尾瀬で三郎と別れ沼田に帰されます。
そして、湯之谷村の様子は、道案内人達が土産話として、家族や村人達に語り伝えました。
詳しくは、『尾瀬大納言、尾瀬二郎、そして尾瀬三郎』 で。