(上毛新聞 2008年8月4日 掲載)
武尊神社と御前宮
◎昔話と歴史つながる
片品村鎌田から国道401号を尾瀬ケ原に向かう途中、越本地区細工屋に入ると道路左側に赤い鳥居が二つ見えてくる。武尊神社と御前宮である。この御前宮の話を村のお年寄りから聞いたことがある。
その昔、京都から尾瀬次郎定連という武士が郎党とともにこの地に来た。勅勘(天皇のとがめ)により京を追われ、故郷へ帰る途中であった。当時は平家全盛の時代。尾瀬次郎はこの地で追討の武士に討たれて部下一族五十余人が死んだという。その後、京より姫の一行が次郎の後を追って訪ねてきた。この姫は次郎の妻「保多賀御前」で、次郎たちがこの地で討死したことを知り落胆。その菩提(ぼだい)を弔うためこの地に住み、はるか京都を懐かしみ、菊の葉に和歌を書いて片品川に流したといわれる。
この姿は「石墨」という画家が絵額にして、土出小字新井の武尊神社に納めてあるという。お姫さまは間もなく病で亡くなったが、村人は姫と次郎の心を思いやり、社を建てたのがこのお宮であるという話だった。
平成六(一九九四)年ごろ、友人より便りがあり、柿花仄著『皇子逃亡伝説』を勧められた。本を手にして驚いたのは、村の古老から聞いた話との関連である。柿花氏の著書の中心は、山形県小国町の北原家と高原家に伝わる二本の古文書巻物の解説である。両家は六百年を超す歴史のある旧家で、巻物は両家とも家長のみが見ることを許された家宝とのこと。しかし、現代では秘蔵しておくだけでなく解読を―というので依頼された、と前文にある。
同書の大要は、平家討伐の令旨を発した「高倉宮以仁王の記録」である。王は後白河天皇の第三皇子で、平家の横暴な政治に対して治承四(一一八〇)年、平家打倒の令旨を発した。これが発覚し京から脱出、奈良に落ちる途中、光明山で討死と正史には記されているが、柿花氏の著書では逃亡したとある。その後、各地で平家追討軍に出会い、その都度身代わりを立てて逃れ、中山道から沼田へ、さらに北上し、片品村戸倉を経て桧枝岐村、出羽国小国城へ向かったと記されている。
戸倉で供人の尾瀬中納言藤原賴実卿が死去し、尾瀬に葬られたという。この地に残る尾瀬次郎の話はこの一行と関連してのことと思われる。北面の士として仕えていた尾瀬次郎が、以仁王とともに京を去り、この地で平家追討軍と戦ったと考えられる。
また、同書には王の后きさきの紅梅姫や桜木姫が一行の後を追って同じ道を来訪したとも記述されている。この女性一行の中に保多賀御前も加わっていたのでは―と思う。両姫の墓は福島県南会津郡に残っている。
(上毛新聞 2008年8月4掲載)
南会津に伝わる以仁王逃亡説が、何故か、尾瀬から突然始まるということから、高名な民俗学者の柳田圀男氏は、『以仁王逃亡伝説は何某が創作した証拠』と主張しています。
群馬県の片品村の尾瀬次郎の言い伝えが、柿花仄氏の著書の出版により、群馬県民も、「尾瀬次郎の言い伝えも以仁王の逃亡説の一つの場面であることにようやく気付いた」という新聞記事だと解釈しています。