新潟県魚沼市に有る新聞社(越南タイムズ)の記者であった磯部定治氏の「小説 尾瀬の三郎」の中に「尾瀬三郎伝説について」の記述がありましたので紹介します。
「小説 尾瀬の三郎」の本文は、魚沼市内の図書館で読めますのでここでは触れません。
磯部定治氏は、新聞記者としての鋭い感覚をもって、湯之谷の村人から地域に伝わる尾瀬三郎の伝説を丹念に取材し、「尾瀬三郎の伝説について」を掲載したものと思われます。
この文章を読むと、これまで私が知っている尾瀬三郎房利のイメージとは全く異なった姿が見えてきました。
磯部定治氏の「尾瀬三郎の伝説について」は、本HPの「尾瀬三郎物語と以仁王逃亡説」の魚沼地方の伝承2のストーリーにほぼ一致します。しかし、いくつかの重要な相違点も見受けられます。
磯部定治氏は「時の左大臣藤原経房なる人物は史上には現れていないようで、実在したかどうかわからない」としています。
しかし、左大臣藤原経房は実在の人物です。実在したからこそ、私は経房の二男である三郎が二条天皇亡き後に后に対して清盛と恋争いをしたなんてことは絶対に不可能であり、時間軸から判断し完全に否定したのです。
ところが、磯部定治氏は「三郎は経房の三男(二男とも弟ともいう)」と書きました。
なんと「弟」説があったのです。
もし三郎が、経房の弟ならば時間軸の問題が一挙に解決してしまいます。
検証してみましょう。
藤原経房【ふじわらのつねふさ】(1142年生―1200年没)
房利【ふさとし】(1142年以降の生まれー?)
平清盛 (1118年生-1181年没 没年齢63歳)
二条天皇(1143年生-1165年崩御)
中宮多子【まさるこ又はたし】二条天皇より3歳年上
如何でしょうか?これで、年齢による疑問点がすっきりと解決しました。
重要なことは「磯部定治氏は藤原経房の実在を知らなかった・・・」のにです。
又、磯部定治氏は「三郎房利は時の皇后の美しさにひかれ、想いをつのらせていた」とあります。
伝承2では、「二条天皇亡き後の后に・・・」となっています。
私は、対象となる后は複数人いて特定できませんでした。
しかし、磯部定治氏は、皇后を多子であると特定しました。
私も多子説に大賛成です。
二条天皇亡き後の后となれば育子が最有力候補でしたから。
「時の皇后の美しさにひかれ」となればそれはもう多子以外に考えられないでしょう。
多子は、八条院あき子の指示で以仁王の元服式を多子の屋敷内で密かに行なっています。
三郎の職業が「宝物殿の守護職」とあります。これも、八条院あき子の屋敷が思い浮かびました。
以仁王、多子、八条院あき子、それに三郎房利がつながりました。
清盛と三郎房利の間に一人の人物が初めて登場しました。
同僚の三条義光という人物です。
「年齢が親子ほど違う清盛と三郎が一人のお后を廻っての恋争い」には随分と違和感を感じていました。
これもすっきり解決です。
しかも、深刻な恋争いなどではありませんでした。
しかし、三郎房利は、これが原因となり、都を去ることになります。
清盛が、流罪の罪で三郎房利を越後の国に流したとあります。
ここまで、何か全てうまく説明がされたと思っていましたが、「弟」にした結果、あることが、説明できなくなりました。
以仁王の乱が1180年、藤原経房が1143年生まれ。
以仁王の乱の時、藤原経房は37歳。
となると、房利は「弟」だから、おおよそ30歳から36歳の可能性。
尾瀬三郎伝説の三郎のイメージは、もっともっと若い感じがするのです。
このことはさて置いて、三郎は、越後国に流罪になりました。
しかし、ここからが何故か、伝説に「創作」の匂いがプンプンしてくるのです。
まず、流罪の地を越後国としました。佐渡国なら成程とも思うのですが、流罪地が越後国ではすっきりしないのです。
「浮田の一党を伴って、流れ落ちてきた所が、越後国は薮神の庄、湯之谷の里だった」越後国に流されたというよりも、何か三郎の意志で湯之谷の里にまで来たみたい。
何よりも、都から湯之谷の里までのルートがそっくり抜けています。
大方の人は、湯之谷の里に入るとすれば三国峠越を想像するのではないでしょうか。
京の都から越後への最短ルートは、普通は日本海岸ルートだと思いますが、このルートで来ると湯之谷の里は、長岡から南方向への逆戻りになる感じがします。
それはともかく、「土地の郷士の二人は牛と人夫30人をつけて千古の密林に分け入いらせ」についても、あの険しい枝折峠を牛が越えられるとは到底思いません。
「不思議な童児が現れて道案内」。これも、凄く不自然。
「笠の骨」磯部氏曰く「骨のある笠は当時には無かった」
結局、三郎房利は尾瀬ヶ原で死んでしまうが、「三郎が所持していた虚空蔵尊像の化身が牛に乗って川を下る」についても、只見川の最上流の沢下りは牛は絶対に歩けないと思うし、更に化身とは・・・・・・ねえ。
「途中牛がたおれたので今度は蛇に乗って」となるに至っては正に漫画みたい。
「乳母三ツ俣が三郎の後を追った。従者は三栄門、与左エ門、市十郎」磯部氏曰く、「どの名も後世の名で平安末期らしくない」その通り。
最大の問題点です。
「三郎房利は、どの段階で、三郎房利に「尾瀬」という名前がついたのでしょうか?」
元々の本名が尾瀬三郎房利という若者が、湯之谷の里から山に入り、川を遡りやがて大きな湿原を発見したのでその湿原を尾瀬三郎房利にちなんでその湿原を「尾瀬」「尾瀬ヶ原」と称するようになった。
結構、この解釈が多いのですよ。
京から、いずれかの街道(三国越・日本海ルート他)を通って湯之谷の里に来て、山に入り枝折峠経由で尾瀬ヶ原に行きそこで三郎房利が亡くなったとするなら、湯之谷の里の人々の間に、伝説として三郎房利に尾瀬の名が付くことは決してないのです。三郎は、湯之谷に帰っては来なかったのですから、湯之谷の村人に三郎房利が尾瀬を発見したという情報が届かないのです。
従って、最初から三郎房利の本名を「尾瀬三郎房利」とする解釈が生じるのです。
それと、群馬の片品村にも尾瀬三郎や尾瀬二郎の伝説があることも同時に合理的な説明をしなければなりません。
桧枝岐村の尾瀬大納言の伝説も説明できなくてはなりません。
というわけで、私は「一行は、利根川を船で遡り、沼田から片品川に入り、舟の航行ができなくなったぎりぎりのところで舟を捨て、徒歩で尾瀬に入り、越後へのルートを探すため、三郎房利は一行を尾瀬に残し、只見川を下り、途中から枝折峠を越えて、湯之谷の里にたどり着いた。村人には自分は尾瀬から来たと告げた。そして村人には、また、戻ってくると言い残して再び山に入った。しかし、三郎房利は村には戻ってこなかった。村人は三郎房利は、尾瀬で死んだと思った。そして彼の名を尾瀬の三郎と呼ぶようになった」という解釈をしたのです。
一方、片品村を通るときに、「尾瀬二郎の伝説」や「尾瀬三郎の伝説」が生まれました。
桧枝岐村を通る時に「尾瀬の大納言」伝説が生まれました。
磯部定治氏は「このように伝説や民話には辻褄の合わない事がいくらでもあるものだ。しかしこの伝説は、その元になる何かが少しでもあったればこそ生まれ、長い年月を経て育ってきたものであろうと思われる」と述べています。
磯部定治氏は、「三条義光」から、「三条の滝」の名称を連想しています。しかし、三郎房利が、以仁王の流罪の原因を作った人物、三条義光の名を滝の名にする訳が有りません。
と、暫くは思っていました。
あることがひらめきました。
もしかして、三条義光と三郎房利は、逆に、気の置けないほどの仲ではなかったのか?
更にひらめきました。
もしかしたら、三条義光は、以仁王の別名ではないのか?
以仁王が三条の宮と言われていることは承知ですよね。
そして、平清盛は、令旨を出した以仁王の名を「以光」と改名しました。
もし、三条義光が以仁王なら、三郎房利が滝の名前を「三条の滝」とするのに何の違和感もありませんね。
ついでに、平滑滝も「平清盛が滑ってしまうような滝」と想像したら楽しくなっちゃいますね。
皇后多子は八条院に居る銀三郎と以仁王を、弟のようにかわいがった。
そんな優しい多子を、ふたりは、取り合いして喧嘩した。
ふたりの年は、まだ10歳前後。
今なら、小学生位の、幼くも可愛い喧嘩でした。
これが私の出した結論です。