地元魚沼市の新聞記者故磯部定治氏は、彼の著書『秘境への郷愁』で、”尾瀬の伝説” について、次のように書いています。
尾瀬の伝説には高倉宮以仁王が登場する。
尾瀬大納言頼国が宮に従って尾瀬へやってきたが大納言はこの山中にとどまった。
この人が安倍貞任の一族安倍三太郎と同一人物だとか、桧枝岐二郎と尾瀬三郎がいて、それが大納言と中納言だとか、さまざまな説が有ってややこしい。(後略)
地元で、唯一、尾瀬三郎研究の第一人者である磯部定治氏までもが「ややこしい」と言わしめるこの伝説は、正直なところ、私も同様に「本当にややこしい」と感じています。
(いつか、複雑に絡み合った糸を解き ほぐしたい・・・)
何十年も前にこの魚沼の地を訪れ、尾瀬三郎の言い伝えに触れて以来、ずっと思い続けてきたのですが・・・。
インターネットが世に普及してくると、『尾瀬三郎』に関して、様々な情報がネットを通じて入ってくるようになりました。
群馬県側には『尾瀬次郎(二郎)の言い伝え』が有ることをネットで始めて知りました。
更に『尾瀬大納言の言い伝え』が、新潟県側だけではなく、福島県南会津桧枝岐村に伝わっていることも知りました。
この情報に触れた頃は、「同一人物が名前を変えて、湯之谷村や桧枝岐村他に出現したのではないのか?」 と思った時期が有りました。
次第に、「それぞれの地に、別人が一人づつ居たのではないか?」 と当初の思いが次第に変化していきました。
そこで、「尾瀬三郎や尾瀬大納言、尾瀬二郎(次郎)の言い伝え」に関して、私なりに整理してみます。
1『尾瀬三郎という伝説上の人物が、本当に湯之谷村に現れた』と心底確信して この謎解きに挑戦しない限り、謎は永遠に解けないだろうと思いました。
2そのためには、新潟県湯之谷村側の尾瀬三郎の言い伝えだけでなく、群馬、福島の三県にまたがる関連する言い伝えをできる限り多く収集することが必要であると考えました。
3次第に言い伝えが私の所に集まるに連れ、「西暦1180年に『尾瀬三郎』という人物が、京の都で討死したはずの以仁王と共に尾瀬に到着し、尾瀬から湯之谷村に来た」との確信に至りました。
4『以仁王』は、日本の正史上は宇治平等院の戦いで討死しています。討死した筈の以仁王が何故生存し逃亡していたのだろうか? 「宇治平等院の戦場からの脱出トリック」については、柿花仄氏の著書「皇子逃亡伝説」を読んで漸く「成程、この手が有ったのか!」と納得、確信に至りました。
5福島県の南会津に伝わる言い伝えには、尾瀬ケ原に居たとされる『尾瀬大納言、尾瀬次郎(二郎)、尾瀬三郎』の名前が一切登場しません。(※安藤紫香著「会津の伝説」)
このことも、必ず、何か理由が有ると感じました。
6磯部定治氏の著書『尾瀬の三郎』の前文を読んで、ようやく尾瀬三郎の悲恋物語の真相を理解することができました。下にその理由を記します。
以仁王の乱は、1180年に起き、その時、以仁王の年齢は30歳です。”伝説尾瀬三郎の悲恋物語” は長寛年間1163年~65年に起きていると言い伝えで語られています。
ということは、1180−1163=17年 、この時の以仁王の年齢は、30−17=13歳 となります。三郎と以仁王は同じ年頃だと仮定すると、両者とも、今の時代なら、中学生位です。磯部定治氏がその著書で書く、”三郎の同僚” だという ”三条義光” という人物は、その名から想像するに以仁王の別名である可能性が強いと私は思っています。磯部定治氏は、”三郎は都では宝物殿の警護が任務だった” と書いています。三郎が以仁王と一緒に居て、宝物殿の警護をしていたとなれば、八条院あき子が住む八条院の屋敷が想定できます。八条院の屋敷なら、あき子が誰よりも信頼した皇后多子も出入りしています。これらのことを考えると、”尾瀬三郎の悲恋物語” と称する事件は、八条院の屋敷内で、それも、優しい皇后多子を廻っての幼いふたりのお絵描き中に起きた他愛のない兄弟喧嘩みたいなものであったと思われます。当然のこととして、幼い子供の喧嘩に平清盛なんぞがしゃしゃり出るような話ではありません。皇后多子は、八条院あき子の求めに応じて、以仁王を自らの屋敷内で環俗させ、元服式までさせています。さらに、八条院あき子は、以仁王を猶子とし、以仁王の二人の子(若宮と姫)も猶子としています。この ”尾瀬三郎の悲恋物語” と称する言い伝えは、1163年~1165年に発生したお話です。一方、尾瀬三郎が湯之谷薮神庄に来たのは、それから15~17年後の1180年のお話です。このふたつの年代の違いは、尾瀬三郎の言い伝えの謎を解く上で、もの凄く重要です。
7群馬県側の言い伝えには、全く辻褄の合わない不思議な疑問点が有ります。しかし、不合理な話にこそ真実が隠れていると思っています。その辻褄の合わない不思議な疑問点と真実を述べてみます。
疑問点とは
群馬県に伝わる尾瀬三郎の言い伝えの内容は、 ”群馬県内で発生したものではない” ということです。
沼田の造り酒屋『尾瀬の左大臣』の言い伝えでは、”三郎は、七日市に現れた後、山に入った” とあります。
即ち、湯之谷村七日市で発生したお話が、遠く離れた群馬県沼田で言い伝えられているのです。
また、片品村の 『尾瀬の大納言』 の言い伝えでは、”越後の栃尾又から山に入った” となっており、これも又、新潟県湯之谷村栃尾又で発生したお話が、群馬県片品村で言い伝えられています。
山を越え谷を越えて、直線距離で、100Km以上も離れた、越後湯之谷村の地名の情報を、沼田や片品村にもたらしたのはいったい誰なのでしょうか?
尾瀬三郎が湯之谷から尾瀬に戻ったとしても、三郎本人は沼田や片品村には戻らず、尾瀬から南会津の方へ行く筈です。従って、”沼田や片品村の人々に越後湯之谷の情報をもたらしたのは少なくとも三郎本人ではない” と考えるのが妥当です。
だとすれば・・・いったい誰なのでしょうか?
(なあんだ、そういうことだったのか)と直ぐに気づきました。
京の都で生まれ育った三郎が、方角も地形も全く知らないで、尾瀬から湯之谷まで道なき山中を一人では絶対に行けませんよね。
つまり、沼田や片品村の、山の状況を充分熟知している人、例えば、山で生活の糧を得ている猟師等、彼らが道案内役として三郎に同行したに違いないという結論に達しました。
彼らは、三郎を先導し、沼田・片品から尾瀬を通り沢を下り、途中から峠を越え、湯之谷まで行ったのです。
そして、湯之谷から再び三郎は山に入り峠を越えて沢を登り尾瀬に戻りました。
尾瀬で三郎と別れた後は、道案内役の彼等は、故郷の沼田や片品村に戻って自慢話をするように、湯之谷村でのことを言い伝えとして残したのです。
8群馬県側の「尾瀬次郎定連」の言い伝えは、
『康平五年(1062)安倍の一族、かねて都にて朝延に仕えていたが、ある時勅勘を蒙り、都を落ちて故郷へ向う途中、官司(かんし)に追われたか、土賊に襲われたかは不明だが、道を断たれて主従五十騎が自害して果てた。定連の奥方保多賀御前は、内裏(朝廷、皇蜜のこと)の流れ(縁故ある者)だったが、夫と共に都を出で、からくも助って当地へ着き給ふとあり、そのところを御座入と称した』
となっています。
つまり、以仁王の乱が1180年に起きていますから、1062年だとすれば、118年も前の話となっているのです。
そこに奥様の保多加御前が後を追ってきたとなると、尾瀬三郎と尾瀬次郎は時代も年代も全く違う言い伝えとなってしまうのです。
この謎は、今でも、全く解けていません。
尾瀬次郎という人が、118年前も昔の安倍一族の話を、片品村の村人に語っただけなのかも知れません。
9桧枝岐村の「尾瀬の大納言」の言い伝えは、
『病に罹り、回復してから以仁王の後を追ったら尾瀬に入ってしまった』
となっています。
桧枝岐村の地形は、両側が山で、山の間を川が流れ、川に沿って、道が一本有ります。
だから、以仁王一行が桧枝岐村から、会津方面へ向け旅立ち、大納言が一行の後を追ったというのであれば、逆方向にある尾瀬にたどり着ける筈が有りません。
これも又、辻褄が合いません。
しかし、次のように考えると、疑問がすっきりと解けてしまいます。
前述しましたが、尾瀬から始まる『会津の伝説』には『尾瀬大納言、尾瀬次郎(二郎)、尾瀬三郎』が一切登場しません。
尾瀬大納言と以仁王一行は、何時、桧枝岐村に宿泊したのでしょうか。
それを、”尾瀬での空白の8日間の間ではないか?” と考えてみました。
つまり、『以仁王一行は、まだ、南会津に向け出発してなかった』と考えてみたのです。
越後への道の探索に行った三郎がまだ、帰って来ないので、渡邉長七唱は、”直接越後に向かうか、それとも、会津方面に向かうか決めていなかった” と想定してみました。
そのため、会津方面の直ぐ近くの桧枝岐村の様子を探ったと考えました。
だから、以仁王一行は、桧枝岐村から尾瀬に戻ったのです。
従って、病気(仮病)が快復した尾瀬大納言も、当然尾瀬の方向に向かいました。
そして、尾瀬大納言は、ある理由で尾瀬で消息を絶ちました。
だから、三郎が到着した後に始まる、安藤紫香著 ”会津の伝説” には、『尾瀬大納言、尾瀬二郎(次郎)、尾瀬三郎』は一切登場しないのです。
10「尾瀬から湯之谷七日市(薮神庄)まで、歩くとしたら、果たして何日で行けるのだろうか?」
以仁王一行は尾瀬ヶ原で8日間逗留しました。
8日後に漸く三郎が湯之谷から帰ってきました。
片道4日の行程です。
「片道4日は、絶対に無理じゃないか?」という議論になりました。
当時、越後までの道など有りません。
沢上りと、沢下り、峠越えは当然藪こきです。
「どんなに急いで歩いても、時速1~1.5kmがいいところじゃないか」
という結論になりました。
1日10時間から12時間歩くとして、地図上の距離で約100kmは有ります。
計算すると、片道でも7~10日はかかりそうです。
以仁王一行が尾瀬に入ったのが7月1日です。
尾瀬を出発したのが、7月9日です。
私は、三郎が、湯之谷村から尾瀬に帰ってきて、渡辺長七唱に報告し、その結果、唱は湯之谷行きを断念し、会津を目指したと想定しました。
しかし、往復で14~20日もかかるとすると、とてもとても辻褄が合いません。
つまり、尾瀬での滞在日数8日間では三郎は絶対に尾瀬には戻って来れないのです。
根本的な問題として、再検討する必要が有りそうです。
片品川の川の状況がいまいち掴めないのですが、以仁王一行は、利根川から支川片品川に入り、どこかで川舟を降りました。
そこで、”川舟を降りてから尾瀬に入るまでに、10日間位、沼田や片品村の集落の家に、隠れ住んだのではないだろうか” と考えました?
つまり、『三郎は、沼田や片品村に着いた日に、越後に向け出発した』と考えてみたのです。
そこで、沼田や片品村にそのような言い伝えがないか調べてみました。
そして、片品村に ”高倉院のかくれ所” という言い伝えが有ることを見つけました。
(前略)・・・・・・以仁王は赤城山大洞を経てこの片品川沿いに逃れ、追神・大原の付近に滞在したということである。高戸谷はその時から、戸谷の地名に高の字を冠して「高戸谷」と言われるようになったと伝えられている。・・・・・・(後略)
(全文は、尾瀬三郎資料館「絵本で読む尾瀬地方の伝説」を参照して下さい)
よくよく考えれば、当然です。
皇族の以仁王に、屋根の付いた部屋で寝泊まりしていただくためでしょう。
それに、越後小国に直接行くか、会津を目指すかも慎重に決めなければなりません。
唱は、川舟を降りた直後銀三郎を呼び、越後への道の探索と越後の情報を探ることを命じました。
更に、銀三郎に同行し道案内をする村人を数人選抜し、すぐに出発させたのです。
また、越後から帰って来る銀三郎との尾瀬の待ち合わせ場所として、尾瀬沼の畔あたりに簡易な小屋を建てました。
この仮設的な小屋は会津の情報を得るためと、尾瀬での以仁王と鶴丸の寝室を確保するためです。
小屋を造るのに、最低でも10日位は必要でしょう。
”高倉院のかくれ所” という言い伝えを見つけたことで、日数の問題の謎がスッキリと解けました。
11 ”尾瀬三郎は、背が高く、良い男だった”
銀山平に建つ三郎像を見ても、確かに好男子です。
湯之谷村に伝わる伝説の三郎のイメージは、全てがハンサムボーイで統一されています。
意外に感じるかも知れませんが、当時の好男子の条件を予測してみましょう。
三郎一行は何日間も山の中を歩いて、漸く、湯之谷村七日市に到着しました。
村人が見た三郎の姿は、銀山平の三郎像のごとく、烏帽子を被り、平安公卿の服装でビシッと決め、顔のひげは綺麗さっぱり剃っていました・・・・・・。
これが、好男子の条件です。
でも、そんな筈、絶対に有り得ませんよね。
何日もの山歩きの結果、服は全身汗まみれ泥まみれで、くしゃくしゃ。
顔はクマのような無精ひげが常識です。
何よりも、烏帽子を被ったままでは、険しい峠越えなど絶対に不可能です。
三郎は、案内役の沼田や片品の村人達と同じ山歩きの服装で険しい山を越えて来ました。
湯之谷七日市に着くと、木陰で薄汚れた服を脱ぎ棄て、新しい平安公卿の服装に着替えました。
クマのように生えていた顔の髭も綺麗さっぱり短刀を使って剃りあげました。
三郎に同行した ”浮田の一党” と言い伝えられている沼田や片品村の村人達も、同じように身だしなみを整えたのだと思います。
当然ながら、これらは、唱や猪隼太の指示通りです。
12 ”尾瀬三郎は、従臣浮田の一党を伴って、湯之谷村に現れた”
湯之谷村の尾瀬三郎の言い伝えに、”浮田の一党” という言葉が出てきます。
この ”浮田の一党” とは一体何者なのでしょうか。
尾瀬三郎が本物の公卿であれば、従臣がいること自体、不自然な気がします。
でも、言い伝えの雰囲気からすると、三郎の家来みたいですね。
地方豪族に、浮田という名前が存在するのかネットで調べてみましたが、ほとんどヒットしませんでした。
浮田という地名がどこかに存在するのかも調べました。
『浮田の森』というのがヒットしました。
でも、以仁王や尾瀬三郎とは全く関連性がなさそうです。
次に、『浮田』という漢字、熟語に着目しました。
漢字辞典で『浮田』の意味を調べました。
浮田 泥深い田
と有りました。
『泥深い田・・・』何かが脳裏に閃きました。
次に、『沼田』という漢字の意味を調べました。
沼田 泥深い田
何と、『浮田』と『沼田』は同意語だったのです。
『沼田の村人』と言わず、”浮田の一党” と洒落た三郎さん、やっぱり貴方はヨカ男ですね。
安藤紫香氏の著書『会津における高倉宮以仁王』によると、『会津正統記』9巻の中に尾瀬ヶ原に到着した以仁王一行の名が有ると記されています。
下に、『会津正統記』9巻に有る一行のメンバー名を紹介します。
高倉宮以仁王御本人
田千代丸(※以仁王の子鶴丸)
尾瀬中納言源(藤原)頼実卿 (大納言藤原頼国の弟)
三河(参川)少将光明卿
小倉少将藤原定信卿
乙部右ェ門佐重朝(頼政末子)
良等(頼兼改)
渡辺長七唱
猪隼太勝吉
この他北面の武士13名
又、『高倉宮会津紀行』には上記の一行に加え、西方院寂了(長谷部長兵衛信連の一族)が加わっています。
この中に、「尾瀬大納言」、「尾瀬次郎定連」、「尾瀬三郎房利」の三名は居りません。
以仁王一行が宇治平等院での難を逃れ、上州沼田から尾瀬に入ったのが7月1日だそうです。
そして、一行が尾瀬ヶ原を出発し会津の桧枝岐村に着いたのが7月9日だそうです。
ということは、以仁王一行は尾瀬ヶ原に8日間もの長期間逗留したことになります。
以仁王一行は、尾瀬ヶ原で8日間もいったい何をしていたのでしょうか?
安藤紫香著「会津の伝説」では、この理由について
”宮一行は長い逃避行の疲れから8日ほどここで逗留して休養した”
という休養説をとります。
後に出版された、安藤紫香著「会津における高倉宮以仁王」では
”以仁王はここにて八日ほど足をとめられて、疲れを休ませられた”
これは、「休んだのは宮だけですよ。他の人は休んでなんかいませんよ」とも読み取れます。
ところで、以仁王一行を率いる大将格は誰だったでしょうか?
これはもう間違いなく渡辺長七唱でしょう。
宇治平等院での戦いで源頼政が自刃しました。
その時、頼政に頼まれて介錯したのが、渡辺長七唱です。
その後、渡辺長七唱は頼政の首を携えて、戦場から消えました。
したがって、以仁王が戦場から逃げ出した時は、渡辺長七唱は以仁王に同行していません。
その後、渡辺長七唱は頼政の首を携えて、東海道を通り、以仁王一行と駿河国八条院領で落ち合いました。
もう一人、著名な猪隼太勝吉という武士がいます。
猪隼太勝吉は、近衛天皇と二条天皇の時に頼政の鵺退治に加わった武士です。
多分、年齢は40歳以上になっているはずです。(猪隼太勝吉の生年月日は不詳となっています)
一行の中で、最も高齢な猪隼太勝吉の役割は、渡辺長七唱の参謀役でしょう。
他に頼政の血筋の者が2名います。
頼兼改め良等とあります。
逃亡中に、元服で名を変えたのでしょうか。
だとしたら13歳から15歳位の青年です。
又、頼政末子もいます。
頼政の子供は何十人もいますから、彼も20歳以下の可能性が有ります。
南会津に "唱崎古戦場" という渡辺長七唱の名が付いた古戦場が有ることからも、渡辺長七唱を一行の総大将とみて間違いないでしょう。
他に公卿が3人います。
ただし、この3人が如何にも怪しいのです。
これらの公卿が、罪人の汚名を着せられた以仁王に自らの意志で同行したとは、どう考えても不自然さが残るのです。
公卿にとってこんな割に合わない仕事はないでしょう。
名前が見当たらないのですが、清3兄弟がいるはずです。
清3兄弟とは、清銀太郎、清銀次郎、清銀三郎の3名です。
北面の武士13名の中にいるのでしょう。
越後吉ヶ平には、頼政嫡子の伊豆守仲綱も同行していたとの言い伝えがありますが、南会津の伝説にはその名はありません。
『平家物語』においても、仲綱は宇治平等院の戦いで戦死しています。
戦いの原因となった『以仁王の令旨』の署名者は、伊豆守仲綱です。
もし、平家方に顔を良く知られている仲綱の首が戦場になければ、それこそ大騒ぎになっているでしょう。
従って、伊豆守仲綱は、一行の中にはいないと断定してよいと思っています。
さて、ここから推理を始めます。
”尾瀬での空白の8日間の謎解き” です。
以仁王一行を率いているのは、渡辺長七唱です。
逃亡作戦の参謀役は猪隼太勝吉です。
頼政の首を携えた渡辺長七唱は、駿河国安倍川沿の八条院領で以仁王と合流しました。
唱は頼政の首を、古河の頼政神社に奉納しました。
猪隼太勝吉は、平等院の戦いに参加していません。
古河あたりで渡辺長七唱の要請で一行に加わったのではないかと思っています。
何といっても、頼政一族の中では、猪隼太勝吉は超有名人なのです。
”鵺(ぬえ)” を直接切りきざき退治したのは、猪隼太勝吉なのですから。
越後国小国の武士達が、以仁王一行の中で唯一顔を承知しているのは猪隼太勝吉だけでしょう。
従って、猪隼太勝吉がいなければ、小国との折衝は不可能なのです。
さて、この時代は陸路よりも川が交通網の主流でした。
以仁王と鶴丸は、沼田までは、舟荷に紛れて、川舟に乗ることで、沿線の村人の誰にも気づかれずに逃避行を続けることができました。
川舟で川を遡るためには、特に河川勾配のきつい上流部では何人かの人足が必要です。
北面の武士が13人います。
この北面の武士が人足役です。
もともと摂津渡辺党の武士は、このようなことを普段からやっていました。
だから、ごく自然に、誰に怪しまれることもなく以仁王を乗せた舟は沼田片品川の上流にまでたどり着くことができました。
ここからは、いよいよ、陸路になります。
陸路はこれまでの舟による逃避行と違い危険がいっぱいです。
何よりも、以仁王や鶴丸の休める場所、安心して眠ることが出来る場所を確保する必要が有ります。
渡辺長七唱は、これらのことについては、十分承知の上です。
あらかじめ、どのあたりで川舟を捨てるのか、何時頃が最も安全か、宿泊できる家は有るのか?等、事前に、猪隼太勝吉に下見をさせています。
駿河国八条院領から得た逃亡資金は潤沢に確保してあります。
資金と言っても、当時は貨幣がそれほど流通してはいなかったでしょうから、高価な調度品でしょう。
例えば、手鏡、反物、茶碗、刀、茶器、等々。
さて、今後、総大将渡辺長七唱が決定しなければならない事のひとつは、越後国小国領迄の ”逃亡ルート” です。
尾瀬から会津を経て柳津を通り、一旦、渡辺長七唱等の本拠地小川庄中山に行ってから、頼政からの命令の地、小国領頼之に会いに行くか、それとも、尾瀬ヶ原から源流を下り途中から山を越えて越後国に入った後、直接小国領を目指すか?です。
沼田あるいは片品を出発し、尾瀬経由で、越後の国湯之谷の集落まで川を下り峠を越えると、片道10日位はかかりそうです。
ふたつめの心配事は、かなり深刻です。
越後の小国領頼之は敵か味方か全く分からないということです。
頼政自体、以仁王の乱を起こす前は平家方だったのです。
小国領の頼之は今はどちらの陣営になっているのだろうか?
また、小国領に至るまでの道中の危険性がどれほどあるのかも大きな不安材料です。
一方、会津ルートにしても、同じ心配が有ります。
沼田集落の民家に着くと、渡辺長七唱と猪隼太勝吉は、一行の中から最も体力に優れている、清銀三郎を呼びました。
銀三郎に越後へのルート探索と、越後国の様子を探らせることにしたのです。
とは言っても、京育ちの銀三郎は険しい山の中を歩くなんてただの一度も経験していません。
猪隼太勝吉は、銀三郎の山の案内役として、山の地形に詳しい村人3~4人を選抜しました。
”浮田の一党” と伝説で言い伝えられていますから、一人や二人ではないような気がします。
と言っても、5人では、山の案内としては多すぎるような気もします。
従って、3~4人。
銀三郎には、片品から湯之谷まで10日、湯之谷から尾瀬沼のほとりまで8日、計18日で帰って来るように命じました。
待ち合わせ場所は、尾瀬沼の畔にしました。
渡辺長七唱と猪隼太勝吉は、銀三郎に対して、もうひとつの重要な作戦を与えます。
老練な猪隼太勝吉が練りに練った作戦です。
武士の姿では、村人に出会った時、村人に恐怖感を与えてしまうと考えたのです。
そこで、銀三郎に、越後国湯之谷に着いたら公卿の衣装に着がえることを命じました。
公卿に化けるのです。
当然のこととして、刀は置いていくように命じました。
名前もそれらしく変えねばなりません。
銀三郎は「尾瀬三郎中納言房利という名前にし、父親は時の左大臣藤原経房」としました。
更に、渡辺長七唱と猪隼太勝吉は、血気に逸る若い銀三郎のために、虚空蔵菩薩像と短刀を持たせました。
虚空蔵菩薩像を村人に見せれば、それだけで村人は安心するはずです。
短刀は護身用で、かつ、ひげそり用です。
無精ひげで、村人の前に現れたら、とても公卿には見えないでしょう。
村に入る前に、必ず、ひげを綺麗さっぱり剃ることを命じました。
平家方がすでに越後の国に手を廻していることも十分考えられます。
だとしたら、以仁王一行が尾瀬ヶ原に潜んでいることを絶対に知られてはなりません。
つまり、銀三郎が尾瀬から峠を越えて来たことを隠す必要があります。
銀三郎は渡辺長七唱と猪隼太勝吉から重要な作戦を指示されました。
「峠を越えて、越後の国に入ったら、直接村には入らず、出来るだけ遠くの集落に降りよ。そして逆方向に進み峠を越えて来たことを村人に悟られないようにせよ。そして、宮のことをそれとなく披露し、村人の反応を探れ」と・・・・・・。
その証拠に湯之谷村に伝わる尾瀬三郎の言い伝えが、”尾瀬三郎は峠を越えて山から来た” となっていません。
幾つかある尾瀬三郎の言い伝えの「三郎はどこから来たのか?」の部分を検証してみましょう。
尾瀬三郎物語(魚沼地方の伝説その1)より
数名の従者を連れて湯ノ谷の山に分け入った三郎が、やがて道が険しくなり、馬から下りて歩き始めたところが、現在の湯之谷村の折立で、あまりの難路に、三郎一行があたりの木々の枝を折々超えたのが、枝折峠(しおりとうげ)だという。
尾瀬三郎物語(魚沼地方の伝説その2)より
尾瀬三郎は従臣浮田の一党を伴って、遥々越の国薮神の庄(現在の旧湯之谷村である)に辿りついた。
尾瀬の左大臣より
時の左大臣藤原常房の次男、尾瀬三郎藤原國卿は、平清盛の策略によって都を追われ、越後の七日市から現在の湯之谷村を経て、燧ヶ岳麓の岩穴に住み着きました。
尾瀬の三郎(磯部定治)より
傷心のの三郎房利が浮田の一党を伴って、流れ落ちてきた所が、越後の国は薮神の庄、湯之谷の里であった。
土地の郷士、上野四郎範重と吉田隼人は、三郎を哀れんで牛とに人夫30人をつけて千古の密林に分け入らせ、身を隠させた。
尾瀬三郎房利由来記より
越後国へ流人と決まった6月中旬、住み馴れた館を離れ、名残り多いが、出発した。警護の武士が前後を守り、牛に乗って、中仙道を下り、上野国より越後へ入った。
その土地の国司上野四郎範憲入道は(三郎を)人里から遠く離れた深谷に送った。
この後は想像するしかないが、魚沼郡薮神庄湯之谷郷の枝折峠を越え、仙谷続く中の又沢の奥を目指し・・・・・・。
如何でしょうか?
現在収集可能な全ての尾瀬三郎の言い伝えから、「尾瀬三郎は、どこから来たのだろうか?」にスポットを当てて比較してみました。
上記に示す通り、「枝折峠を越えてやって来た」とは、いずれの言い伝えも表現していません。
私の中では、「尾瀬から来た筈なのに、何故か尾瀬から来たという言い伝えになっていない」のが大きな一番の謎だったのです。
そこで、私は、渡辺長七唱と猪隼太勝吉の気持ちに同化させて、この謎解きに挑戦してみたのが、”銀三郎の逆戻り作戦” だったのです。
”尾瀬の左大臣” の言い伝えには、七日市から湯之谷を経て・・・・・・とあります。
七日市は、薬師スキー場あたりです。
湯之谷に着いた後も、尾根を進み、先端の薬師スキー場あたりで密かに山を降り、湯之谷街道を東進し、折立あたりで、土地の郷士に面会したのだと思っています。
湯之谷の人達と尾瀬三郎の話題をお話ししていると、「三郎は薮神庄に来たとなっているが、薮神の地名は広神の他、浦佐にもあるのよねえ・・・。どちらかしら?」となります。
荘園は、その土地の豪族の持つ土地で、浦佐にも広神にもあったと考えています。
もちろん湯之谷にも有ったでしょう。
三郎が山から降り立った薮神庄の場所は、間違いなく浦佐でも広神でもなく湯之谷の七日市なのです。
奥只見湖ができる前の地図が有りましたので紹介します
お話を元に戻しましょう。
尾瀬から越後までのルートは、その当時、まだ開拓されていませんでした。
尾瀬沼からは、沢を下ります。
途中には大きな滝が現れます。
この滝は”三条の滝”と呼ばれています。
更に下っていくと、大きな川の合流点に着きます。
今は北の又川と称しています。
北の又に沿って上り、行けるところまで行ったら峠越えです。
山の稜線の最も低いところを狙って越えることになります。
峠越えは、道なき道の藪の中を進むことになります。
帰るルートを間違えないために、木の枝を折りながら進むことを実行したのは、案内人の知恵でしょう。
さて、お話を、沼田に戻しましょう。
沼田で銀三郎を越後へ旅立させた後、唱と猪隼太勝吉は次の作戦に取り掛かります。
まずは、京から平家軍が追ってこないかどうかについては、銀次郎に探らせました。
村人達に不穏な兆候がないかどうかも慎重に偵察します。
村人達には、「我々は越後に行く旅の途中だ」とだけ伝えています。
沼田で2,3泊したら、次の集落に移ります。
いずれは、尾瀬山中に入らなければなりません。
上州沼田や片品に居ては、これから向かう会津や越後の様子は分かりません。
そのため、唱は尾瀬沼のほとりに、簡易な小屋を作らせました。
もちろん以仁王と鶴丸が休むためのものも兼ねています。
小屋を作るのに10日ほどかかりました。
小屋が完成したのを待って、一行は尾瀬に向けて出発しました。
尾瀬の小屋に着くと、唱と猪隼太勝吉は、会津の桧枝岐村の情報収集を銀太郎に命じました。
銀三郎に命じたと同じ理由で、公卿の装束で行くように命じました。
名は「尾瀬大納言」です。
渡辺長七唱と猪隼太勝吉は、尾瀬に残った一行の中にも3名の公卿役を作りました。
一行の誰かに公卿の衣装を着せるだけです。
会津から尾瀬を経て沼田に至る街道ルートはすでに確立されていました。
いつ何時、旅人や村人の目に留まるか分かりません。
その時のために、一行が武士団でないことを完璧にカモフラージュしたのです。
公卿の名は
尾瀬中納言源(藤原)頼実卿 (大納言藤原の頼国の弟)
三河(参川)少将光明卿
小倉少将藤原定信卿
としました。
尾瀬大納言に話を戻しましょう。
尾瀬大納言に扮装した銀太郎は、尾瀬から最も近い南会津桧枝岐村に向かいます。
尾瀬沼からは数時間の距離です。
朝出発すれば、夕方には戻って来られるほどの近距離です。
現在は、尾瀬沼から沼山峠を越えるルートが有りますが、当時は、現ルートの東側の旧道が有りました。
国土地理院の地図に、旧道の破線で示されています。
一本道ですので決して迷うことはありません。
さて、尾瀬大納言に扮装し公卿に成りきった清銀太郎は桧枝岐村に入りました。
銀太郎が渡辺長七唱と猪隼太勝吉から命じられた事項は次のふたつです。
桧枝岐村の村人達は以仁王を温かく迎い入れてくれるのかどうか?
それと、目的地である小川庄中山までの敵の様子はどうか?
銀太郎は村に入り村人達に語り始めます。
公卿に完璧に化けた銀太郎の仕草、言葉遣いは丁寧です。
京の八条院の館で、大勢の公卿たちと接してきました。
それに、元々、京言葉は優しく聞こえます。
村人たちに、銀太郎は優しく語り始めます。
「都で戦がございました、私たちは、後白河法皇の子、高倉宮と若宮をお連れして、ここまで何とか逃げてまいりました。私は大納言藤原頼国と申します。宮と若宮は今、尾瀬ヶ原で身を隠しておられます・・・・」
村人達は、銀太郎の礼儀正しい振る舞いと言葉使いに、少しづつ警戒感を解き始めます。
その日の内に、銀太郎は、尾瀬に戻り、村での出来事と様子を渡辺長七唱と猪隼太勝吉に詳しく報告します。
明くる日、銀太郎は、再び桧枝岐村を訪れます。
今度は渡辺長七唱も同行します。
渡辺長七唱も公卿姿になっています。
京の都からの宮からの土産であると言って、茶碗・反物・茶釜などを、村人達に差し出します。
そして、「今度は、高倉宮と若宮をお連れします」と言い、尾瀬に戻っていきました。
以仁王一行が尾瀬に入って4日目頃、公卿姿の渡辺長七唱と猪隼太勝吉は、以仁王と鶴丸と尾瀬大納言こと銀太郎を連れて、みたび桧枝岐村を訪れます。
以仁王の清楚なふるまいにすっかり打ち解けた、村人達はしばらくの間、楽しい時間を過ごしましたが、尾瀬大納言が突然体調を崩したため、ひとり大納言を残して、4人は尾瀬に戻ります。
数日後、大納言は病状が回復し、尾瀬に戻ってきました。
さて、桧枝岐村に言い伝えられている尾瀬大納言伝説を見てみましょう・・・・・・・・。
福島県南会津郡桧枝岐村の尾瀬大納言の言い伝え
その昔、以仁王(もちひとおう)という落ち武者が、戦を逃れ山奥にある檜枝岐村にやってきました。以仁王は一晩だけこの村に泊まるつもりでしたが、お供の尾瀬大納言藤原頼国公が病に倒れてしまいました。追っ手を恐れた以仁王は、頼国公の回復を待たずに、ほかのお供たちとこの村を後にしていきました。 数日後、ようやく病状が良くなった頼国公は以仁王の後を追い、さらに山奥へと入っていきましたが、どちらの方角へ行けばよいかかいもく検討がつかなくなってしまいました。頼国公が足をとどめたその場所は、広い高原地帯となっており、人の気配がまったく感じられない地であったため、そのままひっそりと暮らすことに決めました。
如何でしょうか?
納得していただけましたでしょうか?
次は、片品村に偵察に行った尾瀬次郎定連こと清銀次郎について述べてみます。
銀次郎の片品村での役割は、敵の平家軍の動きを探ることです。
他の兄弟との大きな違いは、以仁王と若宮の名前を決して出さないことです。
尾瀬に潜んでいるのが以仁王一行だと村人に絶対に悟られないことです。
銀次郎の行動はおのずと慎重にかつ秘密裏にならざるを得ません。
ネットで「尾瀬次郎、尾瀬二郎」を検索してみました。
片品村の伝説として、二つがヒットしました。
伝説の内容は、このように非常に淡白で、簡潔です。
当然といえば当然ですよね。
しかも、次郎の妻であるという保多加御前の伝説の方が何故か詳しく伝わっています。
下に、尾瀬二郎(次郎)の伝説を記します。
1その昔、京都から尾瀬次郎定連という武士が郎党とともにこの地に来た。
勅勘(天皇のとがめ)により京を追われ、故郷へ帰る途中であった。
当時は平家全盛の時代。
尾瀬次郎はこの地で追討の武士に討たれて部下一族五十余人が死んだという。
2康平五年(一〇六二年)安倍の一族、尾瀬次郎定連は、かねて都にて朝延に仕えていたが、ある時勅勘を蒙り、都を落ちて故郷へ向う途中、官司(かんし)に追われたか、土賊に襲われたかは不明だが、道を断たれて主従五十騎が自害して果てた。
「この地」と書いてあります。
「この地」とは、片品村の言い伝えですから、「片品村の地」とも読み取れます。
尾瀬ヶ原も一部片品村に属しますから、尾瀬ヶ原で戦いがあったかもしれません。
当時は『平家全盛の時代』とありますので、以仁王の乱が有った時前後です。
しかし、2番目の言い伝えは、戦いのあったのは1062年とあります。
以仁王の乱が1180年ですので、118年も前です。
銀次郎は、現在の話は口が裂けても絶対に言えませんから、118年も前のお話を村人に語ったのでしょうか。
この謎は、今も尚、私には解明出来ていません。
お話を、以仁王一行が潜んでいる尾瀬ヶ原に戻しましょう。
渡辺長七唱と猪隼太勝吉は桧枝岐村に以仁王と若宮田千代丸(鶴丸)をお連れし、その日の内に、尾瀬ヶ原に戻ってきました。
尾瀬大納言に扮した銀太郎は、村の総代の家に残してきました。
病気が理由です。
渡辺長七唱と猪隼太勝吉は念には念を入れる絶対的な安全策を考えました。
もしも、万が一、桧枝岐村の村人が、敵方だったとしたら、病気で弱って動けない大納言を夜中、襲うはずです。
病気を装って、銀太郎は夜中中、一睡もせずに村人の様子を探ります。
しかし、そのような疑いのある事件は全く起きませんでした。
渡辺長七唱と猪隼太勝吉の疑念は晴れました。
沼田方面の情報の収集に出た銀次郎からは「平家軍の追っ手が来るような気配は全くない」という情報が、渡辺長七唱と猪隼太勝吉にもたらされました。
しかし、越後の国へのルート探索に出た銀三郎は、尾瀬ヶ原に移って6日経っても、まだ戻ってきません。
渡辺長七唱と猪隼太勝吉はあと2日、待つことにしました。
7月8日の朝、銀三郎達が疲れ果てた姿で、ようやく尾瀬沼で待つ渡辺長七唱ら一行の下に戻ってきました。
案内役を務めた、沼田、片品の村人達は、故郷へ帰しました。
渡辺長七唱と猪隼太勝吉はそのやつれ果てた銀三郎の姿を見て、魚沼ルートを諦め、南会津経由で、まずは小川庄中山に行くことを決定し、明くる日の7月9日桧枝岐村に向け出発しました。
”尾瀬大納言、尾瀬三郎房利、尾瀬次郎定連” の役割はこの時点で終了です。
渡辺長七唱は「尾瀬大納言は、山で迷ったのか、戻ってこなかった」と桧枝岐村の村人達に説明することにしました。
尾瀬次郎定連と尾瀬三郎房利については桧枝岐村の村人達はその存在を知りませんので、説明は不要です。
また、3人の公卿の存在についても、村人達に嘘をつき続けなければならないため、消滅させることにしました。
尾瀬中納言源(藤原)頼実卿は、尾瀬沼のほとりでお亡くなりになったことにしました。
三河(参川)少将光明卿は沼山を下りる途中具合が悪くなりお亡くなりになったことにしました。
丁度足をくじき、歩行が困難な、武士がいました。
渡辺長七唱と猪隼太勝吉は、この負傷した武士を、村に残すことにしました。
12日、小倉少将藤原定信卿に扮した武士を坊主頭にし出家させて、次の滞在地の大桃村に残しました。
読者の皆さんには、もう、お分かりですよね。
敵が追って来た時の、情報収集のためです。
その後の尾瀬大納言、尾瀬次郎定連、尾瀬三郎房利
渡辺長七唱と猪隼太勝吉は、尾瀬を出発するに際して、清3兄弟扮する ”尾瀬大納言、尾瀬次郎定連、尾瀬三郎房利” の3名の名前を消滅させました。
従って、安藤紫香著 ”会津の伝説” ”高倉宮以仁王” には、”尾瀬大納言、尾瀬次郎定連、尾瀬三郎房利” の名前は無いのです。
即ち、南会津の言い伝えの中には、この3名は登場しないのです。