西暦1180年、治承4年5月25日夜、頼政は以仁王を馬に乗せ、三井寺を出発、南都興福寺に向かいます。
平家物語では 『宮は三井寺と宇治平等院間で、6度落馬した。そして、平等院に入る時、頼政は宇治橋の橋板を3間剥がした』と語っています。
平等院が頼政軍最後の決戦場所となった理由については、『宮が疲れて休息を取らざるを得なかったからだ』と説明されています。
この展開については、これまで何の違和感も感じなかったのではあるが・・・。
平成21年11月3日、伊勢神宮の宇治橋が20年ぶりに架け替えられました。
古代の土木技術を後世に伝えていくために、大昔から20年毎に架け替えてきたのだそうです。
ということは、伊勢神宮の宇治橋は、古代の橋の形を今に伝えているとも言えます。
橋の名称がどちらも宇治橋で、ややこしいので、伊勢神宮の宇治橋は五十鈴川の宇治橋、平等院の宇治橋は宇治川の宇治橋として以下、区別して記述することとします。
今回、架け替えられた五十鈴川の宇治橋の現場写真を拝見させていただきました。
その現場写真を見ながら、ふと思ったのが、『頼政が平等院に入る時、橋板を3間剥がしたと平家物語にあるが、こんなにも簡単に橋板を剥がせるものだろうか?』だったのです。
伊勢神宮の宇治橋架け替え工事を担当した間組の現場所長矢野竜也さんの報告書を読んだ結果、益々『橋板を剥がすに要する時間』がどうにもこうにも気になってしょうがなくなりました。
頼政軍が南都興福寺を目指して夜中に三井寺を抜け出した時点では、頼政自身は、まさか途中の宇治平等院が頼政軍の最後の決戦場所となるなんて思いもよらなかった筈です。
更に奈良興福寺まで、十分に逃げ込めるだけの時間があると思って、三井寺を真夜中に出発したのです。
従って、頼政が橋板を剥がすに必要な道具や人手等は当然事前に用意などされていない筈です。
ところが、『途中宮が疲れて動けなくなったから、止むを得ず橋板を剥がして時間稼ぎをすることになってしまい戦いが始まってしまった』と平家物語では語られます。
剥がした橋板の延長は僅か3間(5.4m)です。
確かに、橋板を3間剥がせば、敵軍の馬は渡って来れないと思います。
しかし、そんなにも簡単に橋板3間が剥がせるものだろうか。
メンテナンス用として丁度3間、橋板が剥がせるようになっていたとでも言うのだろうか。
伊勢神宮の五十鈴川の宇治橋の工事報告書を見る限り、そんな構造は全く見当たらない。
河川の流量規模は、五十鈴川より宇治川の方が断然大きい。
基本高水流量は、五十鈴川の740m3/sに対して、宇治川は2800m3/sだ。
つまり、宇治川は五十鈴川の3倍以上の流量規模なのです(※基本高水流量を平安時代の流量と仮定しています)
宇治川上流の琵琶湖流域に降った雨水は、たった1本の瀬田川を経由して大阪湾に流れ込みます。
瀬田川は京都に入ると宇治川に名前を変えます。
現在の宇治川は「瀬田川洗い堰」や「天ヶ瀬ダム」で流量調節を行っているので、河川が氾濫することは少なくなりました。
一方、平安時代は流量調節をする施設など一切無かったし、更に、農業用水の河川水利用や水道の河川水利用も殆んどゼロに近い。
つまり、平安時代の方が現在よりも圧倒的に流量が多いのである。
昔は、一旦琵琶湖流域に雨が降れば、宇治橋付近の川の水量はそれこそ半端じゃないことは想像できる。
つまり、橋脚も橋桁も橋板も相当堅牢に造ってないと洪水の流量には耐えられないということです。
文献によれば、宇治川の宇治橋が最初に架けられたのは西暦646年の飛鳥時代だそうです。
その当時、2800m3/sの流量に耐えられる木橋が建造できたなんて、なんて素晴らしいことでしょうか。
そして、以仁王の事件が発生した治承4年の1180年まで、約540年余り。
この間、宇治川の宇治橋は洪水に何回も流されただろうし、その度に新しい橋に架け替えられたでしょう。
そして、架け替える度に、以前より新しい橋は更に丈夫な構造にしていったのだろう。
ホームページ「三川合流物語」によれば、京の都から奈良に通ずる街道は大きく迂回する巨椋池の下手三川合流地点の山崎橋を通るか、最短コースの、この宇治橋を通るルートしかありません。
宇治川の宇治橋は奈良と京都、または、奈良と近江を結ぶ最重要路線上にあります。
つまり、簡単に洪水に流されてしまうような橋の構造ではなかったはずなのです。
伊勢神宮の宇治橋架け替え工事報告書によれば、「解体するにあたっては、擬宝珠などの金物を取り外し、高欄を外してから、敷板を剥がして桁を持ち上げ・・・・・・」とあります。
つまり、橋板を剥がすには、まず橋の高欄から順番に外さねばならないのです。
高欄の下部は、橋板とその下の橋桁にしっかりと組み込まれています。
もっとも、宇治川の宇治橋と五十鈴川の宇治橋の構造がほぼ同じと仮定しての話だが・・・。
河川の流量規模は宇治川の方が断然多いので、宇治川の宇治橋の方が五十鈴川の宇治橋より、橋の構造はより頑丈になっている筈です。
宇治川の宇治橋は一般の人々も往来する重要路線であり、相当な流量もあるので、橋によもや高欄が無かったなどとは考えづらいのです。
高欄は安全柵だから、馬も人も通る宇治川の宇治橋に高欄が無かったとはどうしても考えられないのです。
宇治川の宇治橋に高欄は間違いなく有った。
このような、頑丈に橋板と橋桁に組み込まれている高欄を頼政軍が平等院に入った後、いとも簡単に短時間内に果たして剥がせるものだろうか。
当然、バールやハンマーのような大きな道具も必要になるでしょう。
それぞれの橋の材木は、当時の木造建造物の伝統技法を駆使して、複雑に強固に繋ぎ合わさっているのだろうが、更に鉄釘などで固定されているとしたら、先ずはそれを抜かなければならない。
橋板だって桁材に鉄釘で固定されているかも知れないのだ。
つまり、簡単には高欄や橋板を取り外しできない頑丈な構造になっているはずなのです。
と考えていくと、『清盛軍が近くに迫ってきたから渡るついでに橋板を剥がした』とする平家物語の展開に対して、どう考えても時間的な問題が生じてしまったのです。
ざっくり考えて、『橋板を剥がすという方針伝達と道具の手配に1時間、作業開始から高欄取り外し、橋板取り剥がし完了までに最短で見積もって3時間位、計4時間以上はかかりそうだ』という結論になってしまった。
となると、4時間もあれば徒歩でも時速6kmとして24kmも先に逃げて行けるじゃないか。
頼政軍の配下に橋板を剥がさせておいて、頼政と以仁王は当初の予定通り興福寺に直行すれば興福寺に十分に逃げ込むことが出来たじゃないか。ということになってしまったのです。
つまり、橋板を剥がす時間を4時間以上と見積った結果、平等院が頼政最後の決戦場所となった理由が無くなってしまったのです。
でも、平家物語は決して嘘は語りません。
そして、宇治平等院で頼政軍が平家軍と最後の戦いをしたのも事実だと思います。
頭領の頼政は、平等院の中で切腹をしています。
ということは、頼政が宇治平等院で4時間もの無駄な時間を費やさざるを得なかった別の理由が存在したのではないでしょうか?
前書きが随分長くなってしまいましたが、今回はこんな単純な疑問から『頼政軍が宇治平等院を最後の決戦の場所にした本当の理由』を推理してみた次第です。
頼政が三井寺から宇治平等院まで辿ったルートについては、『頼政道』、あるいは『頼政逃道』として今も地元に伝えられています。
地元で開業している『かどさか内科クリニック』門阪庄三先生のブログを拝見させていただきました。
地域の患者さんから聞いた話らしいのですが、先生のブログによれば『頼政道』に関してはいくつかの逸話が残っているそうです。
『髭の辻』『鳥橋』などがその逸話です。
しかし、不思議なことに、そのブログを読む限り、これらの逸話、あるいは言い伝えの中には高倉宮以仁王の存在の気配が全く感じられません。
頼政は以仁王を護衛しながら頼政道ルートを辿った筈なのに・・・。
頼政軍の中心位置に以仁王がいるのであれば、当時の沿道の人々は気付いているはずと思うのが・・・。
頼政軍の中心人物が以仁王であることは顔を知らない地域の人には分からないと想像しますが、それでも雰囲気位は察知できるはずです。
しかし、逸話の中には、そのような以仁王の気配が全く感じられないのです。
もし、間違っていたら『頼政道』の地域の人達には申し訳ないし、直ぐにも訂正したいと思うのですが・・・。
それと、『頼政道』をよく知る地域の人に機会があればこの私の疑問にお教え願いたいのだが・・・。
そんな訳で頼政軍が『頼政道』を通った時に、『もしかして、以仁王は頼政に同行していなかったのではないだろうか』と思い始めたのです。
それじゃ以仁王はどこにどうしていたのでしょうか?
三井寺を出発した時は、以仁王も一緒だったと平家物語は語っています。
その証拠として、道中、以仁王は6回も落馬したと語っています。
今まで、三井寺から平等院までの間に6回も落馬したと普通に解釈していましたが、もしかしたら、三井寺から出発して僅かな距離の間に6回も落馬したのではないだろうかと推測してみました。
そして、その区間は、『琵琶湖湖畔或いは瀬田唐橋あたりまででは』、と推測してみました。
そもそも、以仁王は、乗馬の経験等無かったと思われます。
だから、馬に乗って僅かの距離間に6回も落馬したのではないでしょうか。
頼政は以仁王が続けて6回も落馬する姿を見て、頭を抱えたことでしょう。
つまり、馬に乗ることのできない以仁王では、興福寺までの逃亡に時間がかかりすぎるのです。
『このままでは直ぐに平家軍に追いつかれ以仁王もろとも頼政軍は全滅する』、と頼政は判断せざるを得なかったのではないでしょうか。
となると、そこで、頼政が考えうる選択肢は何でしょうか・・・?
そうです。
頼政は、落馬を繰り返す以仁王をこのまま馬に乗せ興福寺へ向かうという当初の方針を急遽変更したのです。
頼政は淀川の河運を取り仕切る頭領でありました。
頼政軍を構成するのは摂津渡辺党です。
頼政が出した変更方針は『以仁王は我々とは別行動とし、瀬田川を舟で下らせる(しか選択肢はない)』だったのです。
待ち合わせ場所は、瀬田川下流の山間部から平野部に至るところにある宇治平等院です。
丁度、河路と陸路が宇治平等院の宇治橋で交差します。
河運を取仕切る渡辺党の頭領である頼政ならこれは当然の判断だったと思います。
かくして、頼政は信頼できる何人かの渡辺党の配下と以仁王を残し、馬で宇治平等院に向かいます。
間もなく、頼政は山裾の街道(頼政道)を通り宇治橋を渡り待ち合わせ場所の宇治平等院に到着します。
以仁王が舟でここに到着するまで充分な時間があります。
以仁王がここに到着する時間は、頼政は読み切れていないと思います。
幸い平家軍もまだ近くには来ていません。
頼政は平等院に着くと配下に宇治橋の橋板を剥がすように命令します。
以仁王が遅れてここに到着した時の保険をかけたのです。
以仁王が同行していない分、馬を飛ばして平等院には早く着きました。
しかし、以仁王がここに到着しない限り、頼政軍はこの場所から一歩も動けないのです。
4時間程経過し、ようやく橋板が3間剥がすことが出来ました。
平家軍が対岸に集結しだします。
橋板は3間剥がしてあります。
すぐに、平家軍は平等院に攻め込んでくることはできません。
以仁王はまだ到着してません。
更に時間稼ぎが必要です。
川を挟んで、両軍の、何とものんびりとした、戦闘前の口上合戦が始まりました。
そのうち、ようやく、以仁王が到着しました。
以仁王は平等院の裏道を通って巨椋池の岸辺に用意した舟に乗せます。
以仁王を馬に乗せ興福寺まで走るのはどう考えても時間的に不可能だったからです。
元々、馬には乗れない以仁王です。
清盛軍は幸いにも以仁王が馬に乗れないことは気づいてはいません。
以仁王に数人の者を付け、巨椋池に漕ぎ出しました。
頼政は、以仁王を清盛軍から確実に安全に逃がすために、囮の以仁王ふたりを馬に乗せ、南方隊と北方隊として放ちます。
北方隊は、平等院の西側に巨椋池が有りますので、南方隊と同じ方向に向かった筈です。
ここに、頼政一世一代の大マジックショーが開幕したのです。
続きは ”尾瀬三郎の謎を解く” の展開のとおりです。
お会いしたこともない間組の矢野竜也所長さんに勝手にお聞きしたいのですが・・・・。
お忙しいのに申し訳ありません。
質問「仮に、五十鈴川の宇治橋の橋板を3間剥がすとしたら、所要時間はどれくらいかかりますでしょうか?
条件は
①平安時代にタイムスリップして、平安時代の道具を使って
②予め計画になく突如現場で剥がすことになった
③作業に必要な人数は何人でも調達可能(棟梁のような経験者は数人いたとします)
「かどさか内科クリニック」門阪庄三先生にもお聞きします
質問「頼政道」の地域の言い伝えに以仁王の気配が何かございますでしょうか?
『馬』について知識をお持ちの方にお聞きします。
学生時代『乗馬クラブ』に入部した同級生がいました。
入部初日、憧れの馬に乗ったそうです。
ところが、夕方になって彼は泣きそうになりながら這うようして下宿に帰ってきました。
見ると、内股は大きな水膨れになり皮膚が剥がれ、結局2日間歩くこともできませんでした。
そこで、質問なんですが、”生まれて始めて馬に乗る” ということは誰でもこのようになるのではないでしょうか。
いずれも一方的なお願いで申し訳ありません。
尚、ホームページ「三川合流物語」の古代地図は大いに参考となりました。