雨生池は ”まおいがいけ” と読む。
新潟県三条市下田の番屋山の中腹にある神秘的な池だ。
その池に最も近い吉ヶ平集落は昭和45年に消滅した。
村人は、余りにも厳しい山の暮らしに見切りをつけて集団で離村したのだ。
吉ヶ平集落は、”尾瀬三郎物語の謎を追う” で述べたように、王一行が会津叶津から峠(八十里越え)を越えてたどり着いた集落である。
一行は、小国からの迎えを待つために数日間、吉ヶ平集落に滞在した。
その吉ヶ平集落から雨生池までは、片道三十分程の距離にある。
雨生池については、インターネットで検索すると多くヒットするのでそれを見て欲しい。
吉ヶ平集落から雨生池に行く途中に ”伊豆守源仲綱公の墓” もある。
この墓の主、『伊豆守源仲綱公』とは果たして誰なのかは地域の人達は殆ど知らない。
以仁王が東国に発した『令旨』に、『伊豆守源仲綱公』が署名していることも・・・。
この雨生池であるが、池から流れおちる沢は吉ヶ平集落には向かっていない。
沢水は北側の笠堀集落の方に流れ落ち、この沢を雨生沢という。
しかし、雨生沢を登って雨生池に行く人はいない。
雨生沢は、余りにも急峻で危険なためである。
雨生池には古くからこの地一帯に伝わっている『大蛇伝説』がある。
いつ頃からか、下田の若者たちはこの『大蛇伝説』をもとにして、数年前から盛大に『大蛇祭り』を開催しだした。
ところで、この『大蛇伝説』であるが、伝説のストーリーの展開が、何故か『平家物語』で語られる『緒環の章』にそっくりなのである。
いや、そっくりだと気付いて、紹介するのは、私が初めてであろう。
とにかく、比べてみていただきたい。
(雨生)昔、笠堀の甚右エ門という名主に美しい娘がいた。
(緒環)昔、豊後国のある山里に女があった。
(雨生)ある時、戦いに敗れ全身血まれになった若い武士が「どうか休ませてください」とやってきた。娘は傷の手当てをしてやった。ところがある晩「これ以上長居する分けには参りません。明日の夜明け前に行かなければなりません」と告げた。急いで母に告げると「困ったことだ。おまえのお腹にはあのお侍さんの子がいるきっと帰ってくると思うが心配なら、あの人の衣の裾にこの赤いキネシリの糸を縫いつけておきなさい」と言った。
(緒環)毎夜通ってくる男があり、娘はやがて懐妊した。では「こっそり男の狩衣に、糸で緒環(糸で作った一種の飾り)をつけて目印にし、その糸をたどって突き止めるがいいということになり、娘はそのようにした。
(雨生)次の朝娘は目を覚ましたが既に隣に寝ていた武士の姿はなかった。次の朝娘は目を覚ましたが既に隣に寝ていた武士の姿はなかった。娘と母は縫いつけた赤い糸をたよりに武士の後を追った。糸は大谷の奥雨生沢から吉ヶ平へと、さらに雨生ケ池で消えていた。
(緒環)ところが、その糸は、はるか優婆岳の麓の岩屋の中に消えていた。
(雨生)娘と母は呆然と水面を見つめていると池の中から大蛇がぬっと現れ「私はこの池の主です。娘さんのお腹には私の子供がいます。大切に育ててください」と言って池の中に姿を消した。
(緒環)娘はその岩屋の奥に声をかけ、覚悟の対面をする。男は人ではなく大蛇(日向国の高知尾明神の神体)だった。
(雨生)やがて男の子が生まれ立派に成長した。
(緒環)やがて男子がうまれ、大太と名づけた。
(雨生)後に勇名を轟かした五十嵐小文治だといわれている。
(緒環)大太は大男に育ち、7歳で元服するほどだった。維義はこの大太の5代に当る子孫だというのである。
このふたつのストーリーが、殆ど同じであるということが読者の皆さん御理解できたであろうか?
1180年の治承4年夏に、王一行が吉ヶ平集落に一時滞在した。
その時に、一行の誰かが当時流行していた『大蛇伝説』を村人に語って伝えた可能性も否定できないと思っているのであるが、如何であろうか。
もしも、そうだとしたら、『雨生池の大蛇伝説』は、八百年以上の大昔からこの地に延々と言い伝えられたことになる。
ネットで検索すると、せいぜい三百年前ということが地元では言われているようであるが、そうなると、三百年前の誰かが、平家物語の『緒環の章』に似せて創作したということになり、何とも味気無い。
雨生池に行くには、吉ヶ平集落からが最も近いルートであるが、何故か、『雨生池の大蛇伝説』は吉ヶ平集落の伝説としてではなく、”笠堀集落の名主、甚右エ門の娘の伝説” として伝えられている。
その理由は、雨生池の水は、笠堀集落に向かって落ちているからだと思われる。
吉ヶ平集落には別の大蛇伝説が有った。
「吉ヶ平集落の大蛇伝説」
昔、孫右ェ門様という三人力あるといわれただんな様(土地田畑を沢山持っている家)が、作男達を連れて雨生様に池参りに来られて、宴を張り酒を楽しんで帰りかけたが、途中、雨生様に来て池の大蛇を見ないで帰れるかといって、一人で引き返して雨生ヶ池に行ったそうだ。
薄暗い池にブナの大木が大蛇のように写って見えたか、池の主が何かをして見せたかわからないが、顔真っ青になって、走って帰って来て、作男達にこわい所だから孫の代までも、雨生様に行くなと言った話が伝えられている。
村人達が大ヘビに出会わし、雨生様に助けを求めて、大ヘビから逃れた昔話を古老たちが話していた。
今は農家の朝草刈は牛馬がいないので見られなくなったが、一昔前は、馬の草刈といって飯前仕事(朝飯前)のものだった。
飯前仕事に村人が、吉ヶ平の浦手の新左ェ門(山の地名)の平(約二粁)まで行って、馬に喰わせる草を鎌で刈り始めた。
何かがひゅうひゅういうような妙な音がするので、ひょいと顔を上げて前方を見たら、草丈より少し高く大ヘビがちょろちょろ舌を出し、村人を見ていたそうである。
きらきら光る鎌がじゃまになって、大ヘビが襲って来なくて見ていたのではないかということだ。
村人は腰を抜かさんばかりに驚いて、「雨生大権現様どうかお助け下さい」と唱えながら、一目散に逃げて村の近くの城の腰、または蛇の腰まできて、ここまで来ればもう大丈夫、まあ一安心と馬も草も待っていることだしとまた草を刈り始めた。
そうしたら、いつの間にか大ヘビが追って来ていて、襲いかからんばかりに頭をもたげていた。
村人は前にも増して驚き、「雨生大権現様どうかお助け下さい」を唱えて家に逃げ帰った。
その日の中に雨生様にお礼参りをしたが、大ヘビの毒気にあてられてか、長く病気のように、ふらあっとしていたという。
出典鈴木由三郎著「吉ヶ平物語」より
笠堀集落の甚右エ門の大蛇伝説と吉ヶ平集落の孫右ェ門様の大蛇伝説の対比も面白いが、何れにしても、雨生池を訪れる皆さんは、大蛇には余程気をつけなければならないだろう。