高倉宮以仁王の殺害現場を再検証する
『以仁王が、光明山寺の大鳥居の前辺りで、飛騨守景家率いる平家軍に追いつかれ、平家軍から放たれた「流れ矢」に左脇腹を射抜かれ、わずか30歳の若さで命を落とされた』というのは、今や日本史の通説となっています。
しかし、我々は『この以仁王は替え玉であり本物の以仁王は秘かに宇治平等院から宇治川を下って逃げ延びた』という説を唱えていることは『尾瀬三郎物語の謎を解く』で説明したとおりです。
表題にある『以仁王の殺害現場を再検証する』の『殺害現場』なんて刺々しい表現は、命を落とされたのが本物の皇族の以仁王であれば、このような表現をしてはいけないが、殺されたのが王の替え玉であり、それも素性も知れない若武者ということであれば、『殺害現場』という言い方でかまわないであろう。
ところで、表題にあるとおり、これから『以仁王の殺害現場を再検証』なるものを実施するが、こんな再検証作業はおそらく我々が最初で最後であろう。
何故ならば、世の中の99.99%以上、いや、以仁王が光明山寺の大鳥居の前でお亡くなりになったと日本史の史実として認定されて以来、800年以上の間、日本国民の誰もこんな突拍子もないことなんて考えなかったはずだからである。
再検証の結果、果たして何が飛び出して来るのだろうか。
さて、以仁王は、あくまでも皇族のお一人です。
それも、時の後白河法皇の第3王子だ。
この皇族のおひとりを、たまたま『流れ矢』に当たったいう、正に偶然の事故であったにせよ、平清盛の出撃命令により以仁王は命を絶たれたのは間違いのない事実です。
結果的であったにせよ以仁王という皇族のお命を清盛の命令による武力で奪ってしまったということは、当の清盛にとって、今後の政権運営においても、絶対的に不利な事件発生だったのではあるまいか。
以仁王が発した『令旨(りょうじ)』が早々に清盛に知れたとき、清盛は「ひっ捕らえて高知へ流せ」とは言ったけれど、決して「命を絶て」とは命令していないのです。
「殺せ」と言わなかった理由は、明快に ”以仁王が皇族” だったからです。
皇族の命を直接的に武力で奪うなんて発想自体、日本人の皇族に対する根本思想にはないのではなかろうか。
日本において皇族は、今も昔も日本国民から命を狙われるということは無い。
このことが、西洋の国王とはまったく異なる点です。
その証拠に昔から天皇のお住まいになっている館は、外敵に対してはまったく無防備であった。
京都御所を思い浮かべて欲しい。
京都御所には、お堀もないし城壁ももちろん無い。
現代の東京にある皇居にはお堀も城壁もあるが、あの皇居は徳川家の江戸城を利用したからであり本来はお堀も城壁もないのだ。
『我が命を取られることは決してない』
このことが『令旨』を発した後も以仁王が三条高倉の屋敷で呑気に月を眺めていたという何よりの証拠なのです。
清盛は確かに以仁王を「捕まえよ」と命令した。
しかし、以仁王の館に届いた頼政からの書状には、「謀反がばれた。平家軍が捕まえに向かったから、直ぐに三井寺に逃げなさい」と書いてあった。
呑気に月を眺めていた以仁王にとっては突然の事態の展開に「もしかしたら、命を取られるかも知れない」と思ったのではなかろうか。
以仁王は、頼政の提案に従い、徒歩で三井寺に逃げ込み、更に、三井寺から源頼政等と共に南都興福寺に向け出発するのであるが、清盛の命令はあくまでも「生きたまま捕まえよ」だ。
言葉を変えれば「絶対に殺してはならない」ということです。
以仁王を追った飛騨守景家もこのことは十分承知の上だったはず。
さて、ここからが現場検証です。
現場は以仁王が命を落とされたとする光明山寺の大鳥居付近。
以仁王が本物だったと仮定しよう。
その時以仁王は馬上にいた。
馬上の以仁王の脇腹に流れ矢が刺さったというから、矢が致命傷となったことは明白だ。
となると、その矢は、平家軍から放たれた矢である。
致命傷となるくらいの矢であるから、山なりに飛んでくるような威力のない矢ではない。
その距離は、50メートルから100メートル位であろうか。
それくらいの距離であれば、矢を放った平家軍からは、当然、馬上の以仁王に矢が当たったのが見えたに違いない。
そして、以仁王が馬から落ちたのが目で確認できたはずである。
でも、何かが引っかかるのです。
清盛からの命令は「生きて捕まえよ」だったはずです。
果たして、当たれば致命傷となるような近い位置から、馬上の以仁王に対して矢を射るのかどうかなのです。
となると、矢は戦いの前の儀式、『矢合わせ』の矢ではないか?
でも、それだと矢に力が無く、脇腹に突き刺さって致命傷になるようなことはなさそうです。
つまり、以仁王の脇腹に致命傷として突き刺さった『矢』の理屈がどうしても解明できないということになってしまうのです。
次に進みます。
両軍からの弓矢による合戦の後、平家軍と以仁王の南方隊は、刀と刀の戦いになります。
矢は既に以仁王の脇腹に刺さっています。
王を守っているのは、僧兵達です。
『平家物語』では、最後の一人まで立派に戦って平家軍に全員討ち取られたと説明します。
さて、ここからが2番目の現場検証です。
僧兵達が戦う中心、あるいは後方に瀕死状態の以仁王がいます。
何度も言いますが、王の脇腹には既に矢が突き刺さっています。
既に死んでいるのかまたは、まだ息があり生きているのかは問題ではありません。
激しい戦いの結果、景家率いる平家軍は僧兵たちを全て討ち取ります。
そして、景家は、その僧兵の中心あるいは後方いる以仁王を発見します。
問題は、脇腹を矢に射抜かれた以仁王を見て景家はどう思ったのかなのです。
ひとつは『清盛の生きて捕まえろという命令に背いてしまった』ということ。
もうひとつは『自軍からの矢によって皇族の王を死に至らしめた』ということです。
景家にとって、清盛からの「生かしたまま捉えよ」という命令は絶対ですから、死に直結するような距離から「矢を放て」と命令はしていないでしょう。
思いもよらなかった偶然が重なったのでしょうか。
この時代の戦いの順序は、①お互いの宣伝合戦、②矢合わせ(音がする鏑矢)、③矢合戦、④乱戦と進むのが一般的でした。
我々は、景家が王を追ったのが、戦いの終盤だと考えていますから、①と②は省略し、追い付かれた僧兵達の方から矢戦を仕掛けたと思っています。
勿論、頼政の計略通り実行したに過ぎませんが。
景家軍は、応戦として矢を僧兵達に向け放ったのではないでしょうか。
激しい戦いが終わり、僧兵達を全て討ち取った現場には、その以仁王が景家の目の前に横たわっています。
その遺体を見て、景家は、『以仁王を狙ったのではない。たまたま、運悪く以仁王の脇腹に刺さってしまった』と判断します。
さて、ここからが、重要な問題提起です。
景家はこの脇腹に矢の突き刺さった以仁王をどのように扱うのでしょうか?
常識として、敵将を討ち取った場合には、戦利品の対象として首を刎ね、首を刀や槍に刺して持ち帰ります。
首は大切な褒美の証拠品なのですから。
何故胴体と切り離すのか?
理由は単純、胴体が重たくて持ち帰れないからですよね。
だから、首だけ持ち帰るのです。
胴体は、戦場にそのまま置き去りです。
さて、話を戻しますが、皇族である以仁王が瀕死の状態で目の前に横たわっています。
果たして、景家は武士と同じように褒美の証拠品として以仁王の首を刎ねるでしょうか?
以仁王は皇族なのです。
皇族の首を刎ねるなんことは普通の考えではありえないでしょう。
生きていようが、死んでいようが、首つきのまま、清盛の許に持ち帰るのは一般的な考え方ではないでしょうか?
でも、思い出してください。以仁王の首は何故か胴体から切り離されていました。
六条大夫宗信が沼に入って、以仁王の首のない胴体が運ばれていくのを見ていました。
脇には愛用の横笛『小枝』が挿さっていました。
以仁王の首と胴体は切り離されて首も胴体とも清盛のもとに運び込まれたのです。
重ねて言いますが、胴体も清盛のもとに運ぶのなら首を切り離す必要はありません。
ということは、以仁王の首は、景家が僧兵を全て討ち果たしたときには既に切り離されていたということではないでしょうか?
でも、そうなると、僧兵たちは切り離された以仁王の首を守って戦ったということになります。
でも、これも又引っかかるのです。
以仁王にまだ息が有ったにせよ、即死状態で心臓が動いていなかったにせよ、僧兵に果たして皇族の王の首に刃を当てることが出来るでしょうか?
僧兵とて日本人なのである。
となると、僧兵が以仁王の首をはねるそれなりの理由が必要です。
何故、首を刎ねる必要があったのか?
頼政の場合は自分の首を敵方に渡したくないという明らかな理由があった。
市中の晒し場に晒されたくないという、大将のプライドでしょうか。
しかし、以仁王の場合、僧兵に首を刎ねさせる理由が全く見当たらないのです。
そして、以仁王が本物であれば、僧兵達は以仁王の首を刎ねるなんてことは出来ないのである。
結論は、平家軍も僧兵たちも以仁王が本物の以仁王、つまり、皇族の以仁王であれば、胴体から首が切り離されることは有り得ないということになるのである。
しかし、事実は、首なし胴体が運ばれました。
結論は、『尾瀬三郎物語の謎を解く』で示した『頼政が考えたトリック』いわゆる『替え玉トリック』を僧兵達が完璧に演じたとするとしかないのです。
そして、このトリックを知る関係者は数人を除いて、ほとんどがこの世からいなくなる(死ぬ)という完全消滅トリックなのです。
このトリックを知る生き証人は、渡辺唱、清三兄弟、そして宗信、以仁王、鶴丸だけなのです。
上記の生き証人の内、宗信だけは以仁王の会津・越後への逃亡に同行していません。
宗信は頼政からの書状が届いたとき、以仁王の京の屋敷にいました。
宗信と以仁王は乳兄弟であるということは前に述べました。
平家物語によれば、その後、書状に従い以仁王の屋敷から鶴丸とともに三井寺に逃げ込みました。
更に、平家物語では、宗信は僧兵とともに平等院を抜け出し以仁王とともに南都興福寺を目指したと説明しています。
しかし、一行から次第に遅れやむなく池の水の中に身を隠します。
そして、首のない以仁王が六波羅に向かって運ばれていくのを目撃します。
宗信は何故か平家物語では気の弱い情けない愚か者として描かれています。
宗信は、以仁王一行に遅れたばかりか、怖くて水沼の中に隠れていたら、たまたま、以仁王の首なし死体が運ばれて行くのを見てしまうのです。
「あれは、以仁王ではないか・・・・」とひとりつぶやきます。
そして、以仁王愛用の横笛『小枝』がその腰に挿してあるのを目撃します。
平家物語の語りは、まるで天上界から地上の現場を見ているようなリアルな表現です。
平家物語の作者は何故こんなリアルな筋書きが書けるのでしょうか?
宗信が後日、平家物語の作者に『白状』でもしない限り、この景家による『遺体遺棄』という事実は作り話としか思えないでしょう。
三井寺に逃げるときも女装した以仁王が溝を『ひょい』と飛び越えました。
これも、当事者の3人(宗信、以仁王、鶴丸)しか知りえない事実です。
宗信は後日、平家物語の作者に一部始終を報告したのではないかと考えられないでしょうか。
更に、頼政の自刃する様子、即ち、「我首を討て」「いや討てませぬ。腹を切ったら討ちましょう」や、その時、頼政は歌を詠み、渡辺唱は頼政の首を刎ね、宇治川の深みに沈めたというくだりについても、当事者だけしか知りえない事実です。
これも、頼政の首を切り落とした渡辺唱からの報告によるものではなかったのか?
これらの謎解きは、次回に譲るとして、次の現場検証に移ります。
次の検証の現場は、首実検場です。
頼政軍の主な大将や子息達は既に首実検が終了しました。
残るのは、『令旨』を発した以仁王と、『令旨』に署名した頼政の嫡男、源仲綱、それに今回の戦の総大将の頼政でしょう。
実検場には首ふたつと首のないひとつの胴体が並んでいます。
平家物語には、頼政の嫡男、仲綱は平等院で自刃、その首を味方の下河辺氏が刎ね、床下に放り込んだとあります。
もし、仲綱の首が行方不明のままだったら、平家物語で『仲綱は自刃した』とは表現しませんから、平家軍の誰かが床下に隠された仲綱の首を探し出したのでしょう。
仲綱の顔は、平家軍の誰にも知られています。
だから、ひとつの首は仲綱であると断定できました。
残ったのは、一対の胴体と首です。
切り口は一致しています。
景家が運んできた遺体に間違いありません。
頼政の首は首実検場には有りません。
頼政の首なし遺体は平等院内に有ったけれど、首は、見つかりませんでした。
渡辺唱が首を刎ね、宇治川の深みに沈めたと平家物語では説明しています。
唱はトリックの天才、頼政の第一の配下です。
頼政と唱はここでもトリックを使いました。
頼政の血の着いた直垂に、石を丸め込んで宇治川に投げ込みました。
そして、頼政の依頼通り、首は唱が持って逃げました。
頼政の首なし胴体は平等院に置き去りにしてきました
頼政の首なし胴体は、誰が見ても分かります
先ず年齢です。
頼政軍には、これほどの老人は頼政しかいません。
その腹には、腹を切った短刀が突き刺さっています。
首の切り口は、一刀両断の手慣れた武士の仕業であることも一目見ればわかります。
ということなどが、首実検場では報告されたのでしょう。
慎重な吟味の結果、首は無いが『頼政は、平等院内で間違いなく自刃した』と結論づけられました
残ったのは、一対の胴体と首です。
この胴体と首は、光明山寺の大鳥居の前から景家が持ち帰った例のものです。
腹には矢が突き刺さった矢傷がありました。
証拠品は、以仁王の愛用の横笛『小枝』です。
遺体の年齢は、30歳前後。
顔は何故か、剥ぎ取られて血まみれです。
当然のこととして、飛騨守景家から、以仁王を討ち取った様子が報告されます。
「我々は、興福寺へ向かった以仁王を追いました。光明山の大鳥居の前でようやく追い付きました。以仁王は馬に乗っていました。我軍が近づくと敵軍は弓矢を射かけてきました。そこで我軍も弓矢で応戦しながら徐々に追い詰めていきました。 ところが、我軍の矢が王に当たったのでしょうか。王が落馬するのが見えました。それを契機に、敵軍が我軍に向かって来ました。激しい戦いが続き、敵軍を全て、討ち取り、王が落馬した場所に行ってみると脇腹に矢の刺さった首のない胴体が横たわっていました。 首はどこかと探したところ、討ち取った僧兵の近くに、直垂に包まれた首がひとつ見つかりました。切り口は一致しています。以仁王の首に違いありません。ということで胴体とその首をここまで運びました。」
というような報告がなされたと思います。
状況からは、間違いなく以仁王に違いありません。
しかし、念を入れ、何人かの首実検人を呼び確かめました。
平家軍の誰も、以仁王の顔を知る人はいなかったためです。
平家物語では実検人は王の子を産んだ女房と有りました。
王の治療をしたことのある典薬頭定成も呼び出されました
『愚管抄』では、以仁王の学問の師である宗業に見せて王の首であることを確定したと書かれています。
『愚管抄』は、王であることは確定はしたが、しばらくして『宮はまだおはしますなどいうこと云い出して、不可思議な事どもありけれど、信じたる人の愚かにて止みにき』と書かれています。
また、『玉葉』によると、『凶徒の罪科』に関する朝廷での会議の様子が長々と記録されていて、そこでは『以仁王は行方不明』という立場だったそうです。(長谷部信連を巡ってより)
どうやら、当時の朝廷サイドでは、『この遺体は、以仁王ではない。以仁王は生きてどこかにいる』というのが結論だったようです。
現代の解釈は『以仁王は、光明山の鳥居の前で流れ矢に当たって亡くなった』というのが史実となっています。
この解釈は歴史の途中で変わったのではないでしょうか
それも、ある単純明快な説明によって。
例えば、日本の生んだ民俗学の権威である柳田國男氏が述べた文章を思い出していただきたい。
・・・・越後東蒲原の中山という奥在所に(中略)天皇は世の中の乱れを御厭いなされて、伊豆守仲綱という武士を召連れ給い、密かにこの地に行幸あって御隠れなされたと称してその従者の末という者が十数戸、祖先の誇りをもって今もそこに住んで居る(中略)、平家物語や盛衰記の有ることも知らず、あっても読むことも出来なかった時代に、こういう固有名詞などは一つでも有った筈はない。 勿論最初は口にするのも勿体ないような旅の御方がとか、何でも遠い都の方から貴い神様のような御人が御降りになってとか、いう風に語り継いで居たのを、それが事実ならば日本武尊の他にはない、もしくは高倉宮の御事としか考えられぬと、新たに教えてくれる人は外に在ったのである。 ・・・・たとえば中山の御所平伊豆守仲綱を説き、さては渡辺の唱競兄弟、猪隼太などというつわものの忠節と奮戦とを伝えて語えて居るのは、平家物語を読んだことの無い者の能くする所ではない・・・・(伝説より)
平家物語には『本物の以仁王が死んだ』とは書かれていないことは既に述べました。
でも、柳田國男氏のような大権威者が『平家物語に書いてある』と書くと、平家物語をよく読んでいない人は『本物の以仁王は光明山の鳥居の前で亡くなった』と思い込んでしまいます。
柳田國男氏ともあろう大学者が間違いを犯すなんて、誰も思いませんよね。
でも、以仁王は、頼政の消滅トリックを用い、駿河、甲斐、尾瀬、会津、越後へと逃亡の旅に出ました。
だからこそ、その土地土地に以仁王のたどった線上に、伝説や言い伝えが残っているのです。
最後に繰り返しますが。
以仁王の伝説、言い伝えは、王がたどった線上以外には全く残っていないのです。
おわり