高倉宮以仁王御墳墓考
岩城 宮城三平編
越後 小柳傳平校
再校正 尾瀬三郎研究会
越後の国、東蒲原郡(蒲原郡小川の荘旧会津に属す)の東山村にある古墳は、『高倉宮以仁王の御墓である』と言われている。
新編会津風土記には、東山村古墳は、村の端中山の西五町ばかりの小倉嶺という山の頂にあり、二間四方程の平らな地にあって、土地の人は『石神』とも『御廟山』とも称している。
この高倉宮以仁王の墓地は、高さ三四尺余り、径九尺程の盛り土の上に栗の老樹が植えてある。
その傍らには、車の形をした石塔の如きものがあり、その中は空間となっており、付き石の左右に一六輪の車輪を彫り付け、その廻り各八寸後ろに表石の如きものがあり、その表石は高さ一尺程の五角形の淡い白色の石である。
これより北の嶺が一六間程続いて、また石の車屋形が立ち並び、この後ろに表石を置き、盛り土の上に樹を植え、南にあるものと同じ様に、まわりが五六町の間は、森々たる栗林となっていて、みごとな幽遂(ゆうすい)である。
この辺りより、十歩ばかり東に下りた所に、東西二町、南北二町余りの平地がある。
高倉宮のお住まいになった第屋の跡であるとして封彊(キョウ・さかい)の跡がわずかに残っている。
これより北の方三十間程の所に空隍が二つある。
ひとつは幅二間半、ひとつは幅四間半、共に深さ二間ばかりで土地の人は陷井(カンセイ・落とし穴)と言っている。又、その付近の字名を大城戸と言う。里人はこれを要害の為に設けたと言っている。
ここより東方をさし隔てて、土の堤防のような南北に横たわる小峰の東面の大きな塚が五つ、小さな塚が二十余り連なっている。しかし、何人(なんびと)の塚かということは伝わってはいない。
思うに、以仁王は後白河帝の第二皇子であり、京の三條高倉の御所にお住まいになっていたことから、三條宮とも高倉宮とも称しているが、治承四年四月、源三位入道頼政の勧めにより、父後白河天皇の叡慮を慰(なぐさ)めるために平氏を滅ぼそうとしたが、ことならずして大和国奈良へ落ちのび、光明山の鳥居の前において流れ矢に当たり、お亡くなりになり、御年は三十歳であられたと『平家物語、源平盛衰記』等にある。しかし、村民口碑に伝わるところは『田原又太郎忠網の計らいにより、東海道より甲斐・信濃の山路を経て、上野の国沼田の里に道をとり、陸奥の国会津郡に至り、遂にこの地(中山)に隠れ住んで、生涯を終えられた』となっている。
車屋形の塚は、どれが以仁王の墓か、あるいは宮の子もしくは御簾中(正妻)などの墓か知れず、どの墓が宮の墓かはわからない。
宮の薨去(お亡くなりになった)年は伝わってはいないが、月日は四月三日であるとして、今や、尊崇することが大方の見方になっている。
『平家物語・源平盛衰記等』には、(京の都の三條高倉にお住まいになっていた頃の)宮を訪ねてくる人は少なく、そのお姿を知る人は殆んどいなかったとの記載がある。そのため、宇治の戦いで首をはねられた後、女房(宮の身の回りの世話をした女官、又は、宮の子を産んだ女性)に宮の御首であるかどうかを見分(首実検)させている。
『愚管抄』には、宮の学問の師である宗成に首を見せて確認させたとも書いてあるが、世の噂には、『宮の生死は定かではない』との疑いを持つものもあったようで、玉海(玉葉の別名)には、治承四年九月二十三日の日記に『高倉宮及び頼政入道は何日か前に、頃駿河国を経て、奥の方に向うという土人(世間の人)の噂がある』と記され、同十月八日の日記には『高倉宮必定現在なり、去る七月伊豆国に着き、今は甲斐国におり、仲綱以下、相具して候すとの土人の噂がある』と記されている。
玉海の著者、月輪兼實卿は関白忠通公の第三子であり、二條帝の御字内大臣に任せられるほどの人物で、大日本史には『博通典故朝庭毎有疑議数咨詢焉』とあり、二條帝にお仕えした後も引き続き、後鳥羽帝にも歴仕し、関白にまでなったほどの人物である。
世間の噂ではあるが『高倉宮の生死は定かではない』とするひとつの証拠である。
東山村の旧記会陽小川風土記及び諸所の古跡村民口碑に伝わることを下に掲げる。
一、東山村地誌書上の旧記に、『治承四年、高倉宮は宇治の難を逃れ此の地に隠れ住み、京都東山歌中山清閑寺の僧を微下し、一寺を草創して清水寺と号した。この寺は、今は廃寺となってしまったが、字に寺屋敷の名を残す。宮は京を景慕する余り、本村面倉を東山と改称し、お住まいの地を中山と号す』と記されている。又、中山の石神は、尊き高倉宮の御霊神である。
頼政と仲綱の謀略(宮に身代わりをたてた大囮作戦)では、(宮が光明山の鳥居の前まで来た時)宮に似た(若者)の首面(顔)の皮を剥いで、首を御垂直(直垂)に包んだ。そして、『流れ矢に当たった』こととして(宮の首を)平家方に渡した。
平家は(この首が本物の宮であるかどうか確かめるため)宮の首実験を行った。
一、常波村の明王院の先祖は宮に随従し、小倉峯御墳に対する字丸山という谷間に一人で居住し、御墳墓を守護した。その後、移転したが火災に遭い旧記を焼失した。年代は不詳である。今は丸山の地に礎石が存在し養水(生活用水)に用いた冷水が湧き出ている。
一、高倉宮以仁王は宇治の(頼政)軍が敗れた際に、田原又太郎忠網が計ったとも、又、頼政が謀略したともいい、宮の身代わりを平家へ渡し、王は陸奥より越後国に向かい、御供には伊豆守仲綱、乙部右衛門尉重頼、渡邊唱、猪隼太、清銀太貞永、同次郎、同三郎、其の他六位士十三人の外、西方院寂了信楽らが山を越え、宮を奉して東海道より甲斐信濃の山路を横切り、上野国沼田の里に道を取り、檜枝岐の間道を越え会津郡に入った。
上野国高崎町の土屋老平、世良田村八坂神社祠官阿久津盛為の説の中で、『住古日本武尊碓氷嶺を越えたまう』とあるのは『吾妻郡四阿屋山』ではないかと知れ渡っている。今は鳥居崎という日本武尊を祭る鳥居が地名となっている。高倉宮も同嶺(住古日本武尊碓氷嶺)を越えたとの筆記がある。
同国同郡土出村の萩原栄松の先祖が、宮が御休みなられたとして宮から矢を二本賜ったと伝えられている。
同国同郡戸倉村の萩原権六の先祖は、宮をおもてなしたとして宮から弓を賜わり、その弓を屋の棟に釣って置いたが、火事のため全てを無くした。又、御恩を忘れないため『一弓』を屋号とした。
又、権六の説くところによれば、戸倉村より尾瀬峠に至る間には奇岩が双立し、松の樹があり、素晴らしい景色を宮がご覧になった。今は(その奇岩を)高倉岩とも御前倉ともいう。
栗原孫之丞が著述した先進玉石雑誌に、高倉宮系図上野藤原村民家蔵というのがあり、貞任宗任の謀反の余類、窃に遁れ来りて、深山の僻地に世を忍びたる系図の中に黒丸高倉宮舎人宮御前高倉宮妾との記述がある。又、桧枝股二郎尾瀬三郎杯とあり、貞応年中桧枝股尾瀬両郷を領するとある。紙墨色三百年前物と記してある。
治承四年五月、闇本院の第二王子高倉宮以仁王が宇治合戦に敗戦した後、源三位入道以下のもの達を御供にして信楽の山を越えて、近江源氏を仲間に引き入れなさり、美濃国を始めとして入道(頼政)と同じ流れを汲む頼光とともに、この場所に三日、あの場所に五日と、日数を重ねた。【信濃路や吾妻の山の嶺つづき、沼田の奥の川場山、千貫松の坂を過ぎ】 時には、会津の地の程近い堺の沼辺において、宮の女房役(親しい部下)の尾瀬氏の病が重くなり、お命を落としたので、そのあたりの土を穿(掘)って埋葬し、その後、宮は萩原という処へ分け入りなさったという。以下略す。
高倉宮御伝記には、尾瀬中納言頼実卿は宮に随従し、沼山にて病に罹りお亡くなりになった。沼より十余町ほど隔てたところに、一辺二間ばかり、高さ三尺弱の塚を造った。三河少将光明卿同前は焼ヶ嶽の麓の沢にて病にてお亡くなりになった。この場所を三河沢という。
明治十五年、桧枝岐村にて三河沢を焼畑した時、塚を発見したと河原田盛一の信書にある。
小倉少将定信卿が病気になり宮の御供が出来ず、大桃村に残ることになり、遁世僧流に身を託して大桃村瀧岩寺を開創したということが新編会津風土記に記載されている。
玉石雑誌並びに利根郡追貝村の海蔵寺大痩嶺瑞筆記、土出村深見重太郎越本村笠原源七筆記伝説によれば、安倍家の余類乱を避けて深山に潜匿し、尾瀬が原に二楷段という所に城跡というところがあって礎が今なお猶存し、諸所に物見を置いて、不時に備えたという。藤原村民家に蔵する系図と御伝記を併せ考えると、宮はこの場所に御杖を駐めたまえしものと思われる。
上野国勢多郡多那村の桑原清就の片品川を隔て、多那村と相対する刀根郡尾合村に御座という地があるが、これは宮が休泊なされた縁故で付けられた。
又、吾妻郡より中山超えにて御通行とし、峠を下り、下川田村より三里半程の処に尾合村、三里程の処の追貝村追貝にも御座という地がある。
又、追貝より二里弱の処にも御座入村がある。
一、石塔二基が中山の西一町ばかりの所にある。ひとつは高さ二尺五寸余、幅七寸五分ばかり、付石は経二尺四寸余り、「寿清浄堅信士清銀太郎貞永為菩堤子孫修建仁二壬戌年四月二日」とあり、もうひとつは高さ二尺程の無方塔で、付石径一尺七寸余り、「清水寺二世数覚上人云々」とあり、上人とは太田駿河守広綱嘗て兄仲綱の養子である。宇治の難を逃れた後、鎌倉幕府に仕え、建久元年庚戌十一月十四日に源右相上洛の共をしてのぼり、御白砂より逐電醍醐に入り僧となり、数覚と号し世に出たとあるが、ひそかに小川荘中山に来て宮とともに住み延応元巳亥年十一月十六日、寂城戸口に葬るといわれている。
一、百八燈山は中山の東にあり、御廟山と相対する。山勢は南北方向に麗が傾斜し高くない。昔、高倉宮がここにお住みになられた時、百八の燈火を燈したとことからこの名がつくという。
一、中山には清銀太郎貞永がここに居て、宮を警護する。子孫が今も中山に居る。又、貞永の遺物であるという太刀は長二尺六寸三分、込身八寸一分五厘、無銘、東山村佐藤傳十郎が預っている。
一、一の城戸舘跡は野村地内にあり、小出川に枕(のぞ)む。渡邊長七唱(となう)が中山の御所守衛の為、ここに住み栗瀬村八幡城をも兼ねたという。又、唱の仲遠兄弟の五輪であると伝えるものが中山城戸口観音堂の下にある。
一、合瀬川舘は上條二の城戸といい、猪隼太の子、藤五郎がここに住んで中山御所の守衛をしたという。
一、渡邊長八仲遠は津川の地に舘を築き警護する。子孫は旧野村にいる。
一、佐藤兵庫仲清は東山村鏡山に舘を築き護衛する。子孫は東山にいる。
一、清銀次郎貞行は室谷村に住み警護する。子孫は室谷にいる。
一、清銀三郎貞方は□沢村に居住して警護する。
一、橡堀村にある広瀬ヶ城は、会陽小川風土記には、古柵跡は東西二十五歩、南北四十歩、城山の高さ三町ばかりで、一名を物見か城ともいう。以仁王の中山の御所を守護し、又は敵を防ぐために備えたと思われる。この地を野村といい、遠村まで見える。野村には長谷川源左衛門の先祖が住んだという。
一、押手村より安用村に接続する川岸の石壁の上に、三段の土塁を築き、道路を眼下に見下ろして、石弓を仕掛け、防戦に備えし跡という処がある。これを村民は戦傷岩と呼ぶ。
一、野中村は、今は両郷村に属し、猪隼太屋敷ともいい、四方三十歩程、小壟(こつか)を回らせたものが有る。又、隼太清水という冷泉があり、墓樹かと見える榎の大樹が存在する。祖父神祖母祖である隼太夫婦の影堂の門扉一片が、猪氏の民家にしまわれている。
一、高出村には、新編会津風土記会陽小川風土記によると、往古月見御所という処があり、そこには今も御所神社があり、月見院を祭るという。一説には高倉宮の御子、四の宮を祭るともいう。御所神社には短刀一振りがあり、長さ九寸八部、無銘、古い時代の作と見える。短刀は月見御所の所有された物という。傍に清水が湧き出ており、御所清水と云う。周囲七間で早歳に雨を祈る所である。
宝物に兜釜の前立物一枚、地は革にて黒表の方所に剥れ落ち、裏に鍬形を打ちし跡がある。寛文の頃までは金の鍬形もあったという。
御所神社の傍の山の上に古い塚があり、老松一株がある。これを村民は銭神塚という。或いは銭上とも書す。これこそ月見王の御墓なりという。
又、嶺寒寺の後ろの山つづきに王ヶ嶺又は御ヶ嶺ともいう空堀を廻らした古い塚があり、一草一木も伐採すれば祟りがあるというので、恐れてこの所に誰も近よらない。里俗口碑に伝えるところでは、元弘建武の頃、高倉宮の御子孫、此の村に来て住むとあり、両所(ふたつの塚)とも其墳墓なりと云う。
御所神社の地は室谷川に臨み、東に開けて西に六倉の高山を背にし、隔てた山の端には、今出ようとする月の光が、遥かに水面を映し、涼風を迎ぎ、或いは、花のあかかれ月に嘯きたらんは絶景の地で、月見の御所の名も言を食わむとは言いべからず。
此村の高井山嶺寒寺(文治二年長谷川土佐信春開基曹洞宗也)の寺前に清水があり、周囲りは五間あり、土佐清水と云う。そこに、王の御位牌二つあり、ひとつは大円覚高倉院尊位、もうひとつは月見院尊位と記してある。年号月日は記されていない。又、長谷川土佐信春舘跡があり、同二郎信清と共に宮の御所を守護したという。
一、高倉宮御遺物との傳えられているものが東山村旧村長佐藤傳十郎が預っている。
一刀 一口、長一尺二寸一分、無銘
一椀、朱塗、五器、五具、
一南京製皿、絵牡丹、十枚
(小白根村杉岸を宮沢と改称した)宮沢村の司権蔵の家にお宿をおとりになった時、大新田村の権八と云う者が御迎えに来て、「柳津村に石川冠者有光と云う者あり、平民に属す宮を襲い奉るといふ風説がある」と告げたので、路を変更して只石村の山越をして森戸村に御越えになった時、村民が大勢で路を伐開したので、森戸村は大内沢と改称されたいう。森戸村を出られた後、八総村の司蔵人という者の宅にお泊りになった。森戸村には宮清水という宮のお飲みになったところから付いた清水がある。
中山嶺を通り瀧原村の郷士、藤馬という者の宅にお泊りになった。
中荒井村の郷士、数馬の家に御休憩をとり、田島村の弥平次にお泊りになった。
檜原與八水秡村の三五郎に御休憩して山本村にお着きになった。今の大内村である。
一説には萩原村、倉谷村にも御泊りになったという。
竹杖原の腰掛石は、新編会津風土記には、八総村古跡の竹杖原村から東に拾町余りの中山嶺に登る路にあり、東西二十町、南北九町余り中山峠を越した時、石に座って休憩されたとして、土地の人々はこれを「腰掛石」というが、この場所は誰にも言わないことにした。
御所橋については、瀧原村地内の湲谷で、両傍が岩石峙ちたる大難所があり、この辺りで樵者四五人が削り置いてある木材へ腰を掛け、暫時、休息していた。心無き賎の男であっても、流石に高貴の御方が険しい路に憊れた様はいたわしく、惻隠の情を起こし、削り置きたる材木で橋を架けその上をお渡しになったので、この場所を御所橋という。
大内村については、会津新編風土記には、昔、山本村といったが、治承の頃に高倉宮がここを通ったため今の名に改めたという。祠掌長沼秀善所蔵の旧記及口碑によれば、宮が越後国へ御降りになると聞き、平家に属する柳津住人の石川冠者(有光武家評林には有光は柳津源太夫石川冠者とあり、又、会津古風土記には、石川冠者有光柳津に住んでいるとある)は、二百余りを引卒して、高峯へ押寄せたとき、石川勢へ降し狂風石を飛ばしたら、石川勢は恐れ惴き、敗北した。故にこの高峯嶺を火玉嶺という。再び山本村へ御引戻り、伊南へお戻りになり御徳を慕ひ、村を大内と改め、高倉神と崇祭した。
又、旧水秡村に高倉山というぎ然たる峻山の腰小峰に神社があって、同じく高倉神として崇祭する。山の名も高倉神を祭りしよりの名である。神社に詣る道の左の方に衣装塚があり、ここで新らしい御衣をお召しになり、古き御衣をお脱ぎになって埋めて築いたという。旧萩原村にも高倉神を祭った神社があり、宮が御通行の折、御寓所或は御休憩なされたという。
桜木姫の墓が大内村の御側原にある。桜木姫は、高倉宮后である紅梅御前と共に君夫の御跡を慕い落延びてきた。桜木姫には岩瀬小藤太、堀八十治が御供したが、八十治は当国入口の法坂峠の下にて落命した。姫は山本村へ着いたが旅の疲れにて病死した。乙部重頼の女房が墓に桜木一株を植えて祭った。御側原という地名もこのいわれによりて呼ぶものである。紅梅御前は、戸口村にて御逝去された。御前社と祭って鎮守としている。
針生村より入小屋の間は三里余の山路である。針生村の七兵衛が大峠まて馬にてお送りになった。宮は峠の頂上で馬を止められた。このことからこの峠を駒止峠と呼ぶようになった。旧名は木地山という。
駒止峠から幽山険路を経て澤口村へ向かうが、土地が開けたことから、「この山は口なり」とおっしゃり山口村と改ためたという。
宮が床村旧稲場村の村司小三郎宅にお休みなったことから宮床と改ためた。
界村は、旧名は井出澤といった。宮が御悩(病気)になり、十郎左衛門正根の宅に七日間も御滞在になった時、草の間から湧き出ている清水をお飲みになって病が回復したことからこの清水を宮清水という。正根の子は孫與三郎といい、口碑に伝えるに、御記念にとしていただいた御書を大切に秘め置いていたが、子の孫與三郎は、汚穢に触るるを恐るるとして、川原へ持ち出し焼いてしまった。この村において宮が方位をお尋ねになり「伊(これ)より南、伊より北」と答えたことにより「伊南伊北」と郷の名になった。堺村というのは界に当る故の名である。
片貝村の中丸善三郎所蔵に「宮の御筆」というものがある。真偽は愚眼の及ぶ所にないが、雖もが揮符驚鬼神活筆走龍蛇の勢いがあると感ずる。
乙澤元は木崎と呼ぶ。宮は「ここは何村であるか」と御訊問をしたが、「通り過ぎて来た和泉田村の支村である」と答へたら「それなら乙の村なり」とお言いになられたことから乙澤と改ためたという。
新編会津風土記に長濱村の古戦場が村の西六町にあり、唱崎と言い伝えている。高倉宮を石川冠者が再び襲って来るが、唱はこの時、清水淡路という者に怙(たの)み、宮を楢戸村へ逃がし、淡路と共に黒谷村を背に当てて防ぎ戦い、石川冠者ついにこの所で討たれ石川軍兵も多く討死した。屍を一処に埋めた所であるとして、長さ十間ばかり幅三尺ばかりの塚があり、少し隔てて石川塚がある。このあたりには剣の朽ち折れたるを得ることもある。故に唱崎と呼ぶと記してある。
楢戸村瀧王印には、宮より御紀念として品々を賜わった中に茶釜があり、蓋はないが、頗る古いものである。又、宮の御簾中紅御前の斎せられたまえし無銘の短刀一口(ふり)があり、紅梅御前戸が戸石村にて逝去された時、宮の御歌もあったが、蠧(トツ・きくいむし)により跡形も無くなったと云い伝えられている。
叶津村の長谷部保三郎は、昔叶津に来て讃岐のけを継きりとて家に伝える。宮より拝領したという陶器杯は経四寸二分、深さ一寸一分で輝焼にして、内側には梅に根笹の焼付けがある。
人□に膾炙(かいしや)する宮が御詠みになった歌
「富士を見ぬ人に見せはや陸奥の朝草山の雪の曙」
朝草(浅草)山は只見叶津より引き続き六十里越、八十里越の間に聞こえた大山である。
大内村の御宿は戸右衛門、戸石村は五郎兵衛、針生村は七兵衛、入小屋は太右衛門、界村は十郎左衛門、長濱村は淡路、楢戸村は瀧王院、叶津村は讃岐、いづれにも子孫が今も存在する。
桧枝岐村より田辺を通り御宿した者の子孫の存亡はわからない。
石川系譜に石川四郎住奥州、治承四年庚子七月二十五日、会津南山伊北に於いて長濱有光の子光家が渡邊丁六唱により討死するとあり、長濱村の西唱崎の畠の中に有光家の墓を石川塚というとの記載がある。
宮は叶津村の司讃岐宅に宿をとり、讃岐村中の壮健なる者十八人を撰び越後国へ向かう。御供は小川権蔵その他郷中村司等相を従い瀧王院を先達に険しい山路を越える。村より三里登り猿楽という所があり、ここにて猿楽を御覧に入れて憂さをお慰めになったという。又、一里程登って御宿とした地を宮泊という。同所より尾根づたいに二里程越後の地に入ったところの御宿の地を御所平という。ここには御所山、御所清水がある。又、越後古絵図に御所山、御所平との記載もある。 せり道より少し下ったところに窟がある。五六人も入るほどの広さであるが、宮の御宿となった処であるから猟師も決してここを宿とはしない。御伝記には、猪隼太を小国頼行のところへ使者として送った後、山を下りて吉ヶ平村で宿泊した。叶津村から宮を送ってきた者共は、追々に御暇を与えた。王は瀧王院権蔵の導きによって御潜行の途中、加茂明神の前において頼行の御迎えに逢い御喜びになった。頼行の居城へ入った後、瀧王院権蔵に暇をお与えになった。吉ヶ平村の旧名主、椿荘三郎は乙部右衛門尉の裔であるという。伊豆守仲綱の病が重くなったため、乙部は吉ヶガ平に宮の命令を受けて看病の為に残った。仲綱の病は重く八十里越の清水を求めて、下僕に汲ませたが、他の水を汲んで来たので「求めた水ではない」とお叱りになった。 これが縁にて、高石清水、御前清水、御所清水、伊豆清水ともいう。終に簀を易られたり。上の平に壮広なる墓がある。苗字を椿と改称して存在する。椿氏には秘め置ける系譜がある。相続者でなければ見ることは許されないが、小柳傳平の周旋にて閲する事を得た。 要を摘むに、四男の乙部右衛門尉は『高倉宮は足利又太郎の助けにより奥州へお下りになられ、御供とともに奥州の会津黒川西まで来て、叶津口という所で八里程大山を越え、越後国に渡る。 山麓葦原平に至る(此処虫はみきり)してここに住む祖は大和国の長谷部畳より(虫はみ不明)按ずるに玉海(玉葉)には仲綱は甲斐国にいたという噂がある』と記述されている。 しかし、会津の記録に仲綱の名は見えない。又、乙部の名は記録にあっても、その子孫はいない。不審を懐けり。
泝て勘考するに、仲綱は病のために後れ、漸く御所平あたりにて追着したのではないかと相像できるのではないか。
越後野史水原小田嶋某蔵書、笠原重信抜粋して寄せらるるを見るに、高倉宮潜居地或説に、治承中宇治川の役に高倉宮の軍が破れた時に、足利又太郎忠綱は敵であるのに王を最惜思い、我が臣に命じ、潜かに越後にお落しになったといい、又、伊勢国山田文庫に蔵せる神譜記にも高倉宮の落ちたまう事が載せてあるというと記している。
北越略風土記、船越村の神保孝三郎蔵書には、宮の事が記載してあり、高倉宮御伝記と大同小異なり。
吉ヶ平村の梅澤伊八・長野村の大竹名作・飯田村の小柳傳平筆記には、宮の御潜行について、口碑の伝えが委細に記してある。飯田村にも御泊りになったとの伝記がある。
小国家の城跡は、岩室と石瀬の間、天神山に古跡がある。趣は岩室村高嶋翁平に承りぬ。又、国澤村字小松入には、小国頼行以降、数代が住居したという。古跡は小国澤村小松喜代の案内にて探りぬ。
宮は(小国に着かれて)暫くの時間、安堵の思いをなされたけれども、平氏一族の城氏が越後の国を領して、威権を振っているので、頼行は遠くの同(越後)国、会津領の隣りにある東山村の内、中山の深山幽谷の僻地に王をお隠しになり、従臣は諸所の要害を守り、警護し、天命を終らせたまう。
人々は、今でも四月三日を御忌日として、小川荘中が休日にして尊崇し奉る。
(北越史料叢書 二 )
明治8年の新潟県管内図(新潟県史より)
東蒲原郡(現阿賀町)は会津領であったことが分かる。
従って、以仁王が中山(小川庄)に住んだことについては、越後の古い資料には出てこない。